海の上に浮かぶ城−3
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酷く心地の良い温もりに目を開けるとそこには青年の端整な顔があり、アレンは起き抜けだというのに頬を一瞬で染めた。
いつも高い位置か肩辺りで無造作に束ねられている髪は解かれ、シーツの上にサラリと散らばっている。
何か特別な香油や蜂蜜を使っているのか、不衛生を唱えられても仕方のない船という場所で、
神田の髪は奇跡的なまでに美しいままその艶やかさを保っていた。
掬っても簡単に指の間を擦り抜けてしまう髪をしっかりと一房握り締め、口許に寄せて口付ける。
それはまるで何かへの誓いのようで、アレンは小さく笑った。
(僕が神田に何かを誓えるとしたら、一体何だろう・・・・・・)
与えられる物は多くあるのに、こちらから何かを渡したくても、自分は何も持っていない。
ではせめて労働力を、と思っても、神田は首を縦に振ろうとはしなかった。
(何か、返せたら良いのに・・・)
神田の喜ぶ事が出来たら良い、笑ってくれれば良い。暇さえあればアレンは意識せずとも同じ事ばかり考えていた。
その感情の原点の名を知らぬまま、アレンはもう一度神田の髪にそっと唇で触れる。
人の気配に敏感な神田が密かに覚醒していた事など、知る由も無く。
「見えてきたぜ!」
水夫の一人が声を上げ、他の水夫達は歓喜に混じって雄叫びのような声を上げた。
遠目から見ても華やかとは言えないが、緑が多く活気のありそうな港町。
アレンは小さい頃に娼館へ置き去りにされたので故郷の事をよく覚えていないが、記憶の片隅には
何とか塔と呼ばれる建物があった気がする。
幼いながらにその塔の話を聞いて恐怖した事も憶えているから、ろくな場所では無かった筈だ。
先日の海を覆った霧のように霞がかった記憶。
その微かな思い出を手探りに辿ってみたが、急に頭痛がして頭を振った。
手摺りに額を押し付けて痛みをやり過ごし、息を吐く。
しばらく俯いていると、背後からふわりと柔らかい物が頭から被せられた。
「神田・・・?」
「お前の髪は目立つからな。下船する時は被ってろ」
被せられた物の正体はフード付きのビロード。
随分と質の良いそれは、手触りからしてかなり上質の物だと知れた。
自分には勿体ない代物だとアレンは眉を顰めたが、神田が梳いてくれている髪の色は確かに人の目を惹いてしまう。
神田のような美しい黒髪とは違い、実際年齢よりも遙かに年老いて見せる白髪は常人にとって奇異でしかない。
「顔色が悪いな・・・酔ったのか?」
「・・・・・・はい、そうですね。少し酔ったのかも知れません」
計算したわけではないが、苦笑混じりで言ったアレンの言葉を神田は微塵も疑う事無く信じた。
(自分でも思い出せない過去の事で・・・心配なんてかけたくない)
出来るだけ神田やラビ、他の水夫達の負担にならないように。
元より無理に思い出す必要なんて無い筈なのだ。
忘れてしまったからと言って、大して良い思い出でも無いのだろうから。
次第に近付いてくる陸地に人の姿が見え、街の人達もこの船の来訪を歓迎しているようだった。
(あれ?海賊って歓迎されるものでしたっけ?)
アレンは頭に浮かんだ疑問を神田にぶつけてみようと振り返ったが、下船の準備に勤しんでいる神田は遙か彼方。
仕方なく肩を落として近くにいた水夫に尋ねてみると、その近くにいた水夫達は顔を見合わせてニンマリと笑った。
「あそこは船長と航海長、行き付けの娼館があるんだよ」
今日は久しぶりに良い夢が見られそうだと笑い合う水夫の声は、アレンの耳には届かなかった。
水夫達から発せられた言葉の内容にただ目を見開いて、アレンは自分の血がサーッと引いていくのを感じた。
(ショック・・・?何が?)
港に視線を落とせば何人もの美女が群れをなしている事に気付き、アレンは無意識に唇を噛む。
あそこへ、行きたくなかった。
そして同時に、神田を行かせたく無いとも思った。
それでも準備は着々と進み、アレンは神田とラビに呼ばれるまで呆然と色めき立つ女の群れをただ眺めていた。
久しぶりの陸地に心は躍らず、神田とラビの影に隠れて歩く歩調は普段より随分速度が落ちている。
神田はその様子を船酔いが尾を引いているのだとしか思っていないようで、それだけが唯一アレンを安心させた。
目深に被ったフードをそのままに連れられて入った場所は、明らかに女の匂いと酒の臭いが立ち込める娼館の中。
不躾にも端から端まで見渡し、なるほど規律のある娼館だとすぐに判る。
少なくとも、自分がつい最近まで身を置いていた娼館とは比べものにならないほどマナーは護られているらしい。
アレンのいた娼館は、とにかく金さえ積めば大抵の事は許された。だからこそ、神田はアレンを買えたのだろうし。
居心地の良い場所では無かったけれど、思い出すと懐かしくなってしまう故郷とも呼べる港町を思い溜息を吐いた刹那、
「船長さぁん!おかえりなさい!!今日は是非私と遊んでね!?」
「あら、船長さんと遊ぶのは私よ!」
「じゃあ私は航海長と!!久しぶりね、ラビ!!!」
女性特有の黄色い声ときつい香に顔を顰めたアレンは、勢いよく神田やラビを取り囲んだ女達の所為で輪の外に弾き出された。
その拍子にバランスを崩して転び、机の角で肩を強打する。
突然襲った痛みに小さく呻くアレンの声に気付く者はおらず、アレンは少々女々しいと自分を叱咤しながら立ち上がった。
痛む肩を庇いながらお尻の埃をパンパンと払っていると、視界の端に信じられないワンシーンが飛び込んでくる。
(キ、ス・・・?)
胸元が大きく開いた服を身に纏っている女性は100人の男がいれば99人は絶世の美女と言うに相応しい。
長い睫毛に縁取られた瞳は綺麗な青、豪奢な金髪は緩やかなカーブを描いて腰まで伸ばされて。
対照的だと、アレンは思った。
真っ白で奇異な者としてしか見られない自分とは違う。
そんな人間が、神田の唇に触れ、神田自身それを許容していた。
船で襲った頭痛よりも激しい痛みが、アレンの心臓を喰らい尽くすかのように襲う。
まるで真冬の大海原に身一つで投げ出され、そのままジワジワと寒さに侵されていくように、アレンの身体は小さく震えた。
(見たく、無い。・・・・・・見たくなかった)
か細い呼吸を繰り返し、視界に入れないように努める。
それでも娼館とはそういう行為をする事を前提に訪れる場所で、神田とラビがここに来たのもそういう理由が
あっての事なのだ。
どうしてそんな場所に自分を連れて来たのか、理解出来ない。
ラビはただ自分を楽しませようと思ったのかも知れない。
けれど神田は、何を思って連れてきたのか。
女達と談笑し合う二人が船の上にいる時の二人より遠く感じられて、アレンは所在なさ気に視線を彷徨わせた。
神田達から徐々に離れて館の中を見回し、ふと一台のピアノが目に留まる。
あの娼館で唯一自分の場所として与えられていた埃を被ったピアノ。
歌唄いには豪華すぎるベッドだと与えられた場所。
調律もされず静かに眠っていたピアノは可哀相だったが、すぐ傍には光を取り入れる為の窓もあった。
何より、存在を忘れられたピアノは自分とあまりにも似ていて、哀しいけれど、自分を見ているようだったから。
(君は、弾いてくれる人がいる?)
娼館にはインテリアとして置く事が多い楽器。
それらは本来、音を奏でるために生まれてきたというのに。
鍵盤の蓋を撫で、少しだけ積もった埃を払う。
外見だけでも、磨けばかなりの物だろう。
アレンは自分の掌で出来るだけ埃を取り、仕上げという意味で服の袖を犠牲にピアノを拭いてやった。
ある程度の輝きを取り戻した事に満足して微笑み、アレンは『これからも頑張ってね』と言い残して
神田たちの元へ戻ろうと踵を返した、のだが。
少し前とあまり変化の無い光景。
ただ立ち話が座り話になった、というだけのように見えるのはアレンの気のせいではない。
自分が姿を消しても、神田は何も思わないし、探す事もないのだ。
傲慢な事を考えていると理解していても、溢れてくる哀しみを抑える術を、アレンは持っていなかった。
埃を被ったピアノの上。一人きりで過ごしていた時間。
あの頃は寂しいだなんて欠片ほども思わなかったのに、と、アレンは悲痛を押し殺すように目を瞑る。
今瞬きをすれば涙が零れ落ちてしまいそうで、それだけは絶対に堪えなければならなかった。
(海に・・・帰りたいな・・・・・・)
海に帰れば、神田は自分をその温かな腕に抱いて眠ってくれる。
噎せ返るようなきつい匂いを武器にする彼女たちではなく、何の魅力もない自分を。
「戻ろうかな・・・船に・・・」
ここにいるよりはずっと楽だし、何より女と戯れる神田を見なくて済む。
アレンは共に来ていた水夫を見付けて神田達に言伝を頼み、一足先に船に戻る事にした。
外へと続く扉を押し開けるとき、アレンはもう一度だけ振り向く。
(本当に、どうだって良いんだ・・・・・・)
自分は一体何様なのだろうか、そうして自らを卑下してみても、アレンはやっぱり神田の事が気になって仕方がなかった。
明日になれば神田も戻ってくる。
例えその身に彼女たちの匂いを色濃く残していても、戻って来てくれさえすれば、どうでも良かった。
港から娼館までは一本道だったから、いくらアレンが方向音痴でも船へ戻る事は出来る。
フードを目深に被っていたのを両手でさらに引き寄せて歩き続けていると、進行方向に誰かが立っている事に気付いた。
そんなに狭い道では無いので簡単に避ける事が出来る筈だったのに、その人物はアレンが避けようとした方向に動く。
「?」
それを何度か繰り返して遊ばれているのだと気付き、アレンは足下からその人物の顔へと視線を向けた。
ニタニタと不潔な笑みを浮かべる男――――おそらく中年だろう――――の瞳は確実にアレンを映し、
どう考えてもアレンに用があるとしか思えない。
顔を赤く染め、異常なほど酒の臭いを放つ身体にアレンは数歩下がった。
「何か、ご用ですか?」
見知らぬ男に対する嫌悪感と、目の前の男以外は周りに誰もいない事の焦り。
娼館からは随分離れてしまったし、例え大声で叫んでも誰かが気付いてくれるとは考えにくい。
それでも、とりあえず人のいる場所へ行けば良い。
おそらくここからだと娼館に引き返すより港へ走った方が近いだろう。
アレンは男から出来るだけ距離を取り、不意をついて脇を擦り抜けようと体勢を整えたとき、
「ぅあぁああああっ!!!」
背後に人の気配を感じた時には遅く、ビュンッという音が空気を切った瞬間、アレンは左腕を押さえて地面に倒れ込んだ。
生きてきて感じた事のない激痛。
涙に霞む視界の端にもう一人男が見え、その手には鞭が握られていた。
「おい、傷を付けるなよ。大事な商品だ」
「だから顔はやってねぇだろ?へっ、随分きれぇな顔してんじゃねぇかお嬢ちゃん」
鞭の柄で顎を取られ、強制的に視線を絡められる。
濁った琥珀のような瞳が品定めをするようにアレンを見遣り、ついで嬉しそうに笑った。
「高級娼館から逃げ出すなんて良い度胸だな、お嬢ちゃん。俺らみたいなのが外にいるって教えられなかったかい?」
(逃げ、出す?何のこと・・・?)
少しでも動けば耐え難い激痛に襲われ、言葉を紡ぐ事もままならない。
それに彼等は自分の事を女だと思っている。
『逃げ出す』と言っていたから、あの娼館の者だと思われたのだろうか?
『俺たちみたいなの』と言うのは、おそらく逃げ出した娼婦を捕らえる者の事で・・・、そこまで考えが行き着き、
アレンは背筋が凍るような感覚に襲われた。
「おい、早く運べ。人が来るだろ」
「分かってるよ」
この二人があの娼館から逃げ出した娼婦を捕まえ、また戻す為に待ち構えていたのだとすればアレンは助かっただろう。
だが、逃げ出したからといって娼婦に傷が付けば売れにくくなる事は間違いない。
以前居た娼館も同じだった。
男に買われる為の女に傷が付いては、店側だって困るのだから―――――。
恐怖に震える身体が宙に浮き、容赦なく掴まれた左腕が痛くて涙が溢れた。
けれど、涙の理由はそれだけじゃない。
「っ、・・・・・・ん、だ・・・」
嗚咽と共に洩れた声には、アレンを抱き上げている男でさえ気付かなかった。
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【アレンの身体的特徴】
1:白髪(白銀) 2:銀灰色の瞳 3:イノセンスな左腕 4:呪いのペンタクル
1と2は最初からクリアしてますから。
後は3と4をお話の中で付けてしまえば良いかなぁと思って・・・うぅっ、ごめんねアレン君!!
『って事は頬にも傷付けられるの!?』と思ったお客様!!逃げてください!!
次では付けませんがそのうち付く事はお約束致しますので!!(酷)
アレン至上主義なお客様には嫌われるかも知れませんね・・・。
でも、その場合神田殿がちゃぁんと・・・(神アレ至上主義発動)
canon 05 11 14 mon