向けられた銃口を避ける術を、僕は知っていたのに。





路地裏の野良猫















立ち込めるコーヒーと煙草の匂い、高い位置にあるブラインドから洩れる光、紙が捲れる音。
全ての感覚が捉えた物は僅かで、アレンは怠い腕を持ち上げて顔の前に掲げた。
見つめた左の掌は包帯がまかれていて、「おかしいな。昨日確かにサイレンサーの代わりにしたのに」、とどうでも良さそうに
思い、知らないうちに詰めていた息を吐く。
風穴の空いた場所に、見覚えのない包帯。そしてこの見知らぬ場所。
ゆっくりと起き上がると、寝ている位置からは見えなかった黒い革張りのソファに、誰かが座っていた。
女性のように長い黒髪を持つ人、けれど女性だと思わなかったのは、細く見えて薄く筋肉のついた肩や、二の腕。
『彼』はきっと、アレンを『殺さなかった』男だ。

「・・・・・・殺さなかったんですか・・・仕事でしょう?」
「別に」

低めのテノールが返って、アルトを持つ少年は軽やかに笑った。

「あなたの・・・『黒猫』さんの仕事の邪魔をしたのに・・・生きているなんて・・・・・・」

華やかな世界の裏で、多くの上流階級の者達が彼を必要としている。
『黒猫』は、こちらの世界でも知らぬ者はいない有名な暗殺者。
彼に狙われたターゲットは100%の確率で暗殺され、表の世界からはその存在の記録さえ抹消される。
大手企業の会長が行方不明になろうと、警察の管理職が運転ミスで崖から落ちようと、行政がテレビ局に圧力を
掛けている所為か情報は一般人に知られる事は無く。

アレンは昨夜、一流企業家の御曹司の警護に当たっていた。
と言っても、それは名目に過ぎず、アレンの本来の仕事は御曹司を狙う暗殺者の始末だった。
銃の腕も、剣の腕も、武術も・・・アレンは常人を逸している。けれど、世の中には自分よりも上の者など多くいるのだ。
相手が『黒猫』では、大抵の者は痛みも感じる事無く現世を去る事が出来るだろう。
だから、・・・・・・何故。

「どうでも良いが、何でただの高校生のお前がこんな仕事してやがる」
「調べたんですか?」
「上着の隠しに学生証を入れている暗殺者なんて初めて見たけどな」
「仕方ないでしょう?学校帰りに仕事が入ったんですから」
「落としたら間違いなく暗殺されるぞ、お前」
「伝説の『黒猫』さんに殺されるなら本望だったのになぁ・・・ねぇ、どうして殺さなかったんですか?」
「煩い。黙れ」

言いたい事を言って再び沈黙してしまった『黒猫』は未だに背を向けたままで、アレンは小さく頬を膨らませた。
アレンは彼に訊きたい事が多くあったのだ。もちろんこんな風に会う事は永遠に無いだろうと思っていたから諦めていたが。
5mも離れていない場所に憧れの人がいて、諦めなければいけない理由があるだろうか。

ベッドを下りてソファへ近付く。
足音がしないのは最早癖のようなもので、今更バタバタ歩く事の方が難しい。
ソファに座る彼の背後へ、足音を絶って。まるで暗殺をしようとしているかのようだけれど、自分には彼を殺せない。
ゆっくりと手を伸ばし、絹糸のような髪に触れようとした瞬間。











一瞬、その名の通り瞬く間に消えた青年と、首の頸動脈に触れた冷たい感触。












ソファのスプリングすら軋ませずにアレンの背後に立った青年の、殺された気配。
それはただ宙に浮いているナイフが、自らの意思で動いているのでは無いかと、そんな風に思わせてしまう程。
ねじり上げられた左手首が痛くて僅かに身を捩れば、突き立てられた刃物が薄く皮膚を裂いた。
プツリ・・・と、音はしないのに、聞こえたような気がして。
首筋を通って鎖骨に落ち、見知らぬ服を血が濡らす。この黒いシャツは、おそらく彼の物。

アレンは何も掴めなかった右手を床に向かってダラリと下ろし、『黒猫』の暗殺技術の高さに感嘆の溜息を吐く。
これでは、誰も敵うわけが無い。
自分が死んだ事すらも気付かないのではないだろうか。

「何もしません。君の顔が見たかっただけです」
「見てどうする気だ」
「巷で噂の『黒猫』はすっごい美形だって話なんですけど・・・」
「ただの噂に振り回されて暗殺が務まるのか?」

嘲った声が勘に障り、アレンは無意識に右足を後方へと蹴り出す。
常人ならば軽く数メーターは吹っ飛ぶ予定だったのだが、次の瞬間、アレンは後頭部に酷い痛みを感じて眉を顰めた。
蹴り出した右足は軽く避けられた上に、バランスをとっていた左足を払われ、そのまま床に仰向けに組み伏せられたのだ。
寝ていてもクラクラする視界を直視出来ず、詰めていた息をヒュッと吐き出す。
ゆっくりと周囲の色彩を認識しようと思ったアレンが目を開くと、そこには闇色一色の世界だった。
本来触れる事など叶わない『闇』に手を伸ばせば、それにはサラリとした感触があり、一房掴めば外界の光が漏れる。
それが黒猫の髪だと気付いたのは、どれくらい後だっただろう。
自分を見下ろす漆黒から視線を逸らす事無く、アレンはいつしか彼に微笑みかけていた。

「やっぱり美形じゃないですか」
「・・・白人系の子供。銀灰色の瞳・・・お前が『白猫』だったのか・・・」
「・・・有名なんですか?僕」
「狙撃は俺より上手いって話だが・・・接近戦は完璧にウィークポイントだな。早死にするぜ、お前」

白猫は表情を変えずに吐き捨てた黒猫の頬に指を伸ばし、撫でるように触れる。
払われるかと思ったが、接近戦に不向きだと見破られては相手にとってこの状況は優勢でしか無いのだろう。

「最初会った時に気付かなかったんですか?僕が『白猫』だって」
「最初はただのガキだと思ってたからな・・・あんな暗がりでお前の瞳の色が判別出来るわけ無ぇだろ」

だから殺さなかったのか、と理由が解り、アレンはなるほどと頷く。

「そうですか・・・・・・それで、僕が『白猫』だと判った以上、殺しますか?」
「・・・顔を見られた以上、生かしてはおけねぇだろうな」
「常套句ですね・・・。でも狡いです。あなたが組み伏せたりしたから、僕はあなたの顔を見たんですよ?不可抗力です」
「他に手段があれば言ってみろ」

暗殺者という職業柄、死を恐れる事はとうに止めていた。
常に死ぬ覚悟と、殺される覚悟、殺す覚悟を持って生きていなければならない・・・それは暗殺者なら誰でも心得ている。
それを解っていて『死にたくないなぁ』と思ってしまったアレンは黒猫の言葉に悩み、しばらくして『簡単な事だ』と口を開いた。

「ここで暮らせば良いじゃないですか」
「・・・・・・・・・あ?」
「逃げ出さないように鎖とかベルトで繋いでいれば問題ないでしょう?うん!名案!!」
「おい、馬鹿。お前にはプライドってモンは無ぇのか?仮にも『白猫』と二つ名まで付けられた暗殺者だろうが」
「名前なんて個を区別するための記号ですよ。あ、僕の名前はアレンです。よろしくお願いします、黒猫さん」

ニパッと笑顔を浮かべたあどけない少年に頭痛がし、黒猫は自分の頬に触れていた手を掴んで引き剥がす。
同時に重みが消えて、アレンは首を傾げて自分から起き上がった。

「黒猫さん?」
「死ぬまでここにいるつもりか?春も夏も秋も冬も、そんな事がお前に堪えられるのかよ」
「・・・・・・12歳から15歳まで、僕は陽の元に出る事無く暗殺の技術を学んでいました。あそこに比べたら、ここは天国です」

黒猫さんもいますから。
邪気の欠片も無い笑顔・・・この子供が本当に一国の官僚を何人も死に追いやってきた事を、神田は今も信じ切れない。
仕事の時も、こんな笑みを持って引き金を引いていたのだろうか。

「これからの仕事はどうする気だ」
「僕の代わりはいくらでも居ますよ。実際、僕が通っている高校の4分の1の生徒は暗殺者です」
「・・・・・・次の質問に、正直に答えろ。返答次第ではここに置いてやる・・・・・・一生、軟禁だけどな」
「えぇ・・・結構です」

打ちっ放しのコンクリートの壁は夏は暑く、冬は寒い。
この季節には少し肌寒くて、黒猫の言葉を待つ間・・・アレンは小さなクシャミを一つした。






「命を奪う事に、躊躇いは無かったのか?」






蔑むような言い方でも、咎めるような声質でも無く・・・ただ静かに問うてくる青年を、アレンは静かに見据えた。
人の警戒を解いてしまうような笑顔は次第に曇って、まるで困ったように、目を閉じる。

「・・・たった一人の肉親の命をこの手で奪った時から・・・・・・僕はどこか、おかしくなったのかも知れません」

核心をつく返答では無かったが、それ以上の痛みを背負う過去の話だった。
肉親を殺した時から、自分には他の命に価値を見出せない・・・そう伝えてくる雰囲気を、神田は溜息一つで受け止めた。

「カンダ」
「・・・・・・はい?」
「神田、だ。いつまでも『黒猫さん』じゃ鬱陶しいんだよ・・・モヤシ」

例え生涯軟禁だとしても、ここに居る事を許された事にアレンは花開いたような笑顔を向けた。
だが一瞬後、これでもかという程眉根を寄せて神田を睨め上げる。

「今、『モヤシ』って言いました?それ僕の事ですか!?」
「『白猫』よりずっと似合ってるぜ?」
「冗談じゃありませんよ!『モヤシ』って野菜じゃないですか!!」
「野菜だろうが何だろうが一番似合ってるんだから良いだろーが、文句言うなら出て行け。馬鹿モヤシ」
「――――っ、神田の馬鹿!!バカンダー!!!!」


























あの日から数年、今も変わらないコーヒーの香りが部屋を満たし、時計の針はカチカチと時を刻む。






神田はあれからも『仕事』を続けていて。
アレンは異名で呼ばれ続け、それもいつしか慣れ、一切の家事を任された。

この世界から存在証明になるありとあらゆる物を抹消されたアレンは、家から出る事も、外の景色を臨もうとする事も無かった。
カーテンくらい開けても良い、という神田の言葉にも首を振り、「存在しない人間が窓辺にいたら怖いですよ」と微笑んだ。

この数年で互いに色んな事を話した。
アレンは「どうせ神田しか居ないのだから」と、酒が入った時に笑い話のようにこれまでの標的の話を。
神田は「どうせお前はここから出ないのだから」と、自分の属している組織の話を。
『黒猫』と言われる程だから単独で仕事を請け負っているのかと思っていたアレンは驚き、そんなアレンを見て神田は笑った。
アレンの『存在』を消したのも、その人達らしい。

初めはソファとベッドで別々に寝ていた二人は、いつしか一つのベッドで眠るようになり、肌も重ねた。
空洞を埋めるわけでも、温かさを求めるわけでも無く。
動物がじゃれ合うようにキスをして、何だか可笑しくて・・・それの延長線。
けれどその関係をどちらも『恋人』と名付ける事は無くて。
それが、数年続いた。



















幸福な未来も、不幸せな未来も、選ぶのはアナタ。




 オヤスミ、白猫  オハヨウ、黒猫





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