A hometown of tears 04




「本当に、アレンってあの男の何が良いのかしら」
 食堂を出た黎花は大きな溜息を吐き、納得がいかない、と言葉を零す。
 これがラビやリナリーならば話は別なのだが、今や神田とは犬猿の仲と呼ばれている黎花にはどうしても理解し難かった。
「口は悪いし、優しくないし、横暴だし……」
 挙げればキリが無い神田の短所を言い並べる内に、段々と眉間に皺が寄るのが分かる。だからと言ってトレイを抱えている状況では指で皺を伸ばすことも出来ず、
(あぁ、本当に何もかもあの男の所為だわ)
無意識に小さな舌打ちをした。
「アレン、ご飯持って来たんだけど……」
 声を掛けてしばらく待ってみるが、中から返事が返る様子は無い。気を揉んだ黎花は非礼を承知の上で、「入るわよ」と断って扉を開けた。
 するとそこには、頬を高潮させて瞳を潤ませたアレンが、少しだけ驚いたような顔でこちらを見ていた。
「勝手に入ってごめんなさい。ご飯を持って来たんだけど、食べられそう? 料理長特製の卵粥」
 ほら、美味しそうでしょ? と中身を見せると、アレンは微笑んでこくりと小さく頷いた。
 熱のせいで頬は火照っていたが、青ざめていたときに比べれば健康的に見える。これできちんと食事を摂って薬を飲めば、明日にはもっと顔色も良くなっているだろう。
「風邪じゃないならうつる心配も無いし、今日は私が付きっ切りで看病するから」
 にっこりと吊り上げられた口端は、それがすでに決定事項であることを意味していることが分かり、アレンは戸惑った。
 自分を想ってくれているからこその申し出は嬉しいけれど、その好意に甘えれば黎花が今夜中に風邪をひかないとも限らない。
 それではミイラ取りがミイラになるだけで、結局意味が無くなってしまう。
「黎花、ありがとう。でも僕は大丈夫だから」
「……声、掠れてるわよ? やっぱり風邪じゃないの?」
「ずっと喋ってなかった所為だよ。本当に大丈夫だから」
 大丈夫、という言葉に、黎花の瞳が胡乱気に細められる。
 確かに、今まさに床に臥している病人の口から出る「大丈夫」を易々と信じてくれる人も居ないだろう。
 こういうときの黎花を納得させるには、それ相応の解決材料が揃わないと引いてもらえない。せめて「大丈夫だ」と言う証拠でもあれば良いが、今のアレンには喋るだけでも精一杯で、動き回るだけの体力はまだ戻っていなかった。
「そういう冗談はしっかり食べて、しっかり寝てから言うのね」
 ばっさりと言い捨てられ、がくりと肩を落とした。こうなれば、もう何を言っても聞いてもらえない。彼女の強情さと負けん気は、この教団の中でアレンが一番よく分かっていた。
「じゃあ、せめてもっと温かい格好をしてきて? 黎花が風邪をひいたら意味無いでしょ?」
「うーん、それもそうね」
 これには黎花も素直に頷いてくれて、アレンはほっと胸を撫で下ろす。
「そうだわ。アレン、はちみつミルク貰って来てあげましょうか? 朝は結局飲めなかったし」
「! うん、ありがとう」
 満面の笑みを浮かべたアレンに満足気に頷き、黎花は軽い足取りで部屋を出て行く。扉が閉まる直前に「大人しく寝てるのよ」と念を押すと、可笑しそうな声が「わかりました」と返された。
「さて、と。毛布と二つのカップを一度に持つことは出来ないから……まずは毛布ね。ミルクを先に持って来たらアレンから何を言われるか分からないわ」
 素早く優先順位を決めてから、黎花は自分用に宛がわれている部屋がある一つ下の階へと歩き出した。
 アレンが黎花の性格を知っているように、黎花もまた、出合って間もないアレンの大体の性格を把握していた。
 もしミルクを先に持って行けば、アレンは『自分の頼みを優先させてしまった』と申し訳なさを感じるに違いない。黎花としてはどちらを先に持って来ようと特に深い意味は無いのだが、アレンはそういう些細なことを気にしてしまう性格のようなのだ。
「だけど、自分は他人を優先するのよねぇ……損な性分としか思えないわ。アレンってたまに抜けてるし、そのうち悪い奴に騙されるんじゃないかしら」
 ぶつぶつと失礼な文句を言いながら歩く少女を擦れ違う団員は不思議そうに振り返っていたが、黎花はその視線のどれにも気を留めない。
 初めはじろじろと見られることに不快を感じてもいたが、コムイや他の大人たちから一応の事情を聞かされて、つい最近その視線の意味を理解したところだった。
 教団へ来て半月になるとは言え、長期の任務などで教団を離れていた団員には、まだアレン以外の『子供』の存在が物珍しいらしい。
 それに加えて団員の中には家族や幼い我が子と離れて暮らしている者も少なくなく、つい自分の子供を思い出して目で追ってしまうのだそうだ。
 ふと、ちょっとした悪戯心でなんの前触れもなく振り返ると、足を止めていた団員たちが慌てて自分の持ち場へと駆けて行く。
 大の大人たちを揶揄う楽しさを発見した黎花は小さく肩を震わせたが、「いけないいけない」と指先で目尻に溜まった涙を拭った。
「早くアレンにミルクを届けなくちゃいけないんだったわ」
 悪戯に割いた時間を反省し、タンッと床を蹴る。
 初めは迷っていた教団内の地理も、この半月でほとんど知らない場所は無くなっていた。壊れた噴水のある中庭、星がよく見える最上階の使われていない部屋、夕焼けが一番綺麗に見える場所。それらは全て、アレンに教えてもらった場所だ。アレンが色々な場所を教えてくれたおかげで、今ではこの場所がまるで自分の家のように感じている。それが良い事なのか悪い事なのかは黎花自身にも判断がつかなかったが、ただ一つ言えるのは、「悪くない」ということだった。

『ジプシーは流れ者だ。訪れた街に形あるものを残しちゃいけねぇ。けど、何か人の心にくらいは、残せるものが成せたら良いなぁ』

 黎花を拾ってくれた座長は、酒が入るといつも顔を赤くして同じことを繰り返した。
 数日という期限付きの滞在の筈が、ここへ来てもう半月も経った。初めて出来た友達も、新しく出会った人々も、約一人を除いては大好きになれそうだった。「悪くない」と思えるほどには、居心地が良すぎる所為だ。
 けれど黎花は、自分が『流れ者』であることを忘れたわけではない。もう仲間は一人も居ないけれど、流れ者に拾ってもらった自分の心は、例え居場所を見つけても変わらない。もしあの座長の想いを忘れる日が来るとしたら、あの優しくて温かかった思い出を忘れるということ。
 そんな日は、絶対に訪れない。
「ここの人たちにも色々してもらったものね……」
 自室に着いて手早く毛布を纏めた黎花は、そう遠くない日の別れを思い、毛布を抱えた腕にぎゅっと力を込めた。
 ここで出会えた人たちに、いつか恩返しをしよう。何か彼らの役に立てることを、自分なりに考えよう。
 慣れ親しみ始めた部屋をぐるりと見渡せば、言葉に出来ない想いが込み上げてくる。それほどに、この場所は優しかった。
「……早く行かなきゃ。アレンが待ってる」
 じわりと滲んだ涙を服の袖で乱暴に擦り、大きく息を吐いて部屋を出る。丸くなっていた背を伸ばすと自然と肩の力が抜け、無意識に詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
 引き摺りそうな毛布をしっかりと抱え直し、一度アレンの部屋に戻るために来た道を引き返す。ところが階段を昇ろうとしたとき、ふと自分の前に誰かの気配を感じて黎花は足を止めた。
 人間、と言うよりは、動物のような『気配』。
 昔、旅の途中で獅子と虎を戦わせる見世物を観たことがあった。二頭は互いの隙をつこうと距離を保ち、その瞬間を辛抱強く待っていて、それを観ている観客たちは黎花を含めて皆手に汗をかいていた。-----あの時の感覚と、よく似ている気がする。
 ついさっきまで団員たちが行き交っていたとは思えないほど静まり返っている空間に、注意しなければ聞こえない程度の足音が響く。すぐ傍に居るのか、それとも離れた場所に居るのか。距離感の掴めない相手の後ろを歩くのは気持ちが竦んだが、この階段を昇らなければアレンの部屋へは行けない。
 前を歩く存在につられ、出来るだけ足音を消して階段を昇る。普段の倍の時間を掛けて踊り場に着くと、相手も同じ階に用があるらしく、廊下を歩いていく音が聞こえた。
 同じ階に用があるのなら、きっと相手の方が先にどこかの部屋に入るだろう。そう思った黎花は忍び足で歩くのをやめて、けれど階段を昇りきる頃に見えた『相手』の後姿に、思わず「げっ」と品の無い声を上げた。
 一瞬女性かと思う後姿は、けれどその骨格などから間違いなく男性のものだと分かる。腰に帯刀している長剣に首の後ろで緩く結われた艶やかな黒髪を持つ男は、この教団にはたった一人しかいない。
(ちょ、嘘、何であいつがアレンの部屋に行くのよ……)
 今まさに自分が行こうとしていた部屋に先に入ろうとしている男の手には、湯気の立つカップが一つ。色んな想像が頭の中を駆け巡る中、「来るなら清潔にしてきて」と言った自分の言葉を思い出し、黎花は頬を引き攣らせた。
 扉が閉じられたときに起こった風に乗って、甘い香りが鼻をつく。それはアレンの好きな、あったかはちみつミルクの匂いだった。










 夢を見た。
 教団へ来るよりも前、まだマナと旅をしていた頃にアレンが風邪をひいてしまったときのこと。第三者の視点で見る夢の場面はどこかの宿屋だった。
(ごめんなさい、マナ……僕の所為で仕事が……)
 熱で頬を真っ赤にさせたアレンが申し訳無さそうに言うと、もう何度も同じ言葉を聞いていたマナは苦笑混じりにローアンバーの髪を撫でた。
 国や街を旅する自分たちに安心できるほどの貯えはないし、ここしばらくは人口の少ない小さな町での仕事が多かっただけにしばらくは野宿が続いていた。そのこともあって風邪をひいてしまったというのも嘘では無いが、自己管理が出来ていなかった所為だと自分を責めるアレンは聞き耳を持たない。
(もう謝らなくて良いと言っただろう? 一度言ったことを聞けない子に、これはあげられないな?)
 呆れたような溜息のあと、ふわりと香った甘い匂いにとろんとしていたアレンの目が大きく開かれる。
(あったかはちみつミルク!!)
 上半身を起こして両手で受け取ると、大きな掌が背中を支えてくれた。湯気の立つカップに口を付けてゆっくりと一口飲み、口の中に広がる甘さに笑みが零れる。
 アレンを拾う前も一つの所に留まること無く旅をしていたマナに、料理らしい料理は作れない。たまにキッチン付きの宿屋に泊まっても料理に挑戦するのはアレンばかりで、マナはその様子を面白そうに眺めているだけだった。けれど極稀に、マナもキッチンに立つことがあった。作るのは決まって、料理と呼べるかは分からない飲み物を一品。それが「あったかはちみつミルク」だった。
(あったかいミルクにはちみつを入れるだけで、こんなに美味しいんだね)
(それだけじゃ、ただの甘いミルクだよ)
(え、他にも何か入れてるの?)
 名前から材料を想像していたアレンは目を丸くしたが、マナはくすっと笑っただけで答えはしなかった。
(それを飲んだら寝なさい。早く元気になるんだよ)
(うん……おやすみ、マナ)


 白い湯気が、甘い匂いが、どこか懐かしい味が、何故だか無性に泣きたくなった。
 この大好きな『料理』は、マナ以外の誰にも作れない。だからマナが居なくなってしまったら、もう二度と味わうことは出来ない。
 だけどそんな日は訪れないと、ずっとあの日々は続くんだと、あの時の自分は信じていた。
 ずっと、信じていたかった-----。


「ン、-----アレン」
「ん……」
 重たい目蓋を持ち上げると、こめかみを冷たいものが伝い落ちた。何度か瞬きを繰り返して視線を泳がせると、そこに居る筈の無い存在を見つけてぽかんと口を開く。
「か、んだ? いつ、帰って……ッ」
 驚きにまかせて起き上がろうとすると、忘れていた胃の痛みがじわじわと再び襲ってくる。息を詰めて前屈みになったアレンの姿に眉を寄せた神田はベッドの淵に腰掛け、小刻みに震える背中を労わるように撫でた。ぎこちない手付きが何だかくすぐったくて、少しずつ息を吐き出している間に小さく笑い声が零れる。それに気付いた神田は気を悪くしたのか、チッと舌打ちをして手を離した。
 少し痛みが治まったアレンは身体を捩り、一週間ぶりに見る顔にふにゃりと気の抜けた笑顔を向けた。
「おかえりなさい、神田。凄く早かったんだね」
「まぁな」
 長くはならないと聞いていた任務だったが、まさか一週間で帰ってくるとは思わず嬉しさで頬の筋肉が弛緩する。神田は呆れたように「だらしない顔をするな」と嗜めたが、熱の所為もあってか、一度緩んだ気はなかなか引き締まりそうになかった。-----と、不意に甘い香りが嗅覚を刺激し、アレンはきょろきょろと部屋を見回した。
「あぁ、これか」
 何かを探す仕草に気付いた神田が、アレンの前に一つのカップを差し出す。その香りから中身が何なのか悟ったアレンは、「あれ?」と首を傾げながらカップを受け取った。湯気の立つ白い液体は、アレンの大好きなあったかはちみつミルクだ。だがこれを持って来ると言って出て行った黎花はここに居なくて、代わりに神田がやってきたのはどういうことだろう。
 それにもう一つ、アレンに付きっ切りで看病をするために持って来る予定の毛布も、まだこの部屋には無い。つまり、黎花は部屋を出て行ってから一度もここへは来ていないことになる。
(黎花が出て行って、神田が来るまで、どのくらい眠ってたのかな)
 教団内で何かが起こることはまず無いが、行動の早い黎花がまだ戻ってきていない事実に、アレンはことりと首を傾げた。
「神田、黎花に会いました?」
「……知るか、あんなガキ」
 眉間に数本の皺を刻んで返された答えに、乾いた笑いがこぼれる。
 廊下で偶然会った神田にカップを渡して自分は毛布を取りに行ったかも知れない、という期待を込めた想像は儚く砕け散り、小さな肩はがっくりと落とされた。
「じゃあ、これ神田が持って来てくれたんですね……あったかはちみつミルク」
「冷めたら不味いぞ」
「そんなこと無いと思うけど……」
 温かくても冷めていても神田がこんな物を飲むことは無いので、「不味い」と言うのは単なる客観的な感想だろう。
 熱いカップを両手で持ち、立ち上る湯気をふーっと一瞬払ったアレンは、ゆっくりとミルクに口を付けた。-----刹那、
「!?」
「っ、何だ? ……火傷したのか?」
 ベッドのスプリングが軋むほど跳ねた身体に、隣に居た神田も何事かとアレンを覗き込む。持って来るまでにある程度冷めたと思っていた液体がそれほど熱かったのか、と危惧していると、アレンは戸惑いの色を銀灰いっぱいに浮かべて神田を見上げた。
 苦しいのか、哀しいのか、切ないのか。泣き出しそうな表情は何かを訴えるように歪み、唇は戦慄いていた。
「神田、これ、……ど、して?」
「『これ』?」
 鸚鵡返しに聞き返すと、アレンはミルクの入ったカップを神田の胸元の高さまで持ち上げる。
「これ……これ、マナが作ってくれたのと同じ味なんです。でも、ジェリーさんが作ってくれたのは違う味で、作り方はマナしか知らなくて……っ」
「おい、落ち着け」
 色々な想いが込み上げて上手く説明できず、アレンがもどかしそうに眉を寄せる。
 そんな切なそうな顔を見たことがなかった神田は見た目には特に変わったところはなかったが、内心は酷く驚いていた。
「……これはジェリーじゃなくて、俺が作ったんだよ」
「か、神田が?」
「あぁ、作ったと言ってもジェリーが作ったやつにレモンの果汁入れただけだがな」
 あんまり甘そうだから勝手に足したんだ、と言う神田は勝手なことをしたことに後ろめたさを感じつつも、結果的にはアレンを喜ばせたことに微妙な感情が湧く。
 久し振りアレンの口から聞いた、「マナ」という名前。たった一人の血の繋がらない肉親への想いは今も特別なものだと今更ながらに気付かされた気がして、複雑な想いが胸を過ぎる。だが、その想いに名は無かった。名を付けるには、まだ確証が無かったから。
「そっか……そうだったんだ。レモン……」
 じっとミルクを見詰める瞳が、柔らかく細められる。心ここに在らずとはよく言ったものだ、と肩を落とした神田は、無意識にアレンの頭をくしゃくしゃと撫でた。突然のことに驚いたアレンの意識はミルクから神田へと向けられ、幸せそうな笑顔が花開いた。
「ありがとう、神田」
「……顔色、大分良くなったな」
「ほんとに?」
 冷めたミルクを一気に飲み干したアレンの手から空のカップを取り上げ、空いている方の手を額に当てて熱を計る。体温の低い神田の掌が気持ち良いのか、アレンは顎を撫でられている猫のように大人しかった。頬の赤みも引き、熱も微熱程度にまで下がっている。これなら、胃の痛みを除けば明日の朝までには完全に治るだろう。
「毎年のこととは言え、面倒な時期だな」
 呟かれた一言に、アレンは何のこと? と首を傾げる。
「雪が降る頃になると毎年ぶっ倒れてんだろうが」
「え? あ、そういえば」
 そう言われてからようやく、アレンは去年や一昨年も同じ事があったことを思い出した。
 雪が降る頃になると決まってアレンは倒れ、原因不明の高熱を出していた。初めの数年は単なる風邪だと思っていた医療班も、ほぼ同時期に起こるその発作のような症状に、いつしか精神的な負担があるのだろうと結論を出した。幸い発熱と胃痛以外の症状は無く、可哀相だと思いながらも周囲が今まで何も言ってこなかったのは、この症状が改善されるにはアレン本人が意識していない『原因』と向き合う必要があったからだ。
 思い出したくないことを、無理に思い出させることは出来ない。だがずっとこのままでいるわけにはいかないと思っていた神田も、今回は不本意ながら、黎花の言葉に後押しされて口を開いた。
「毎年自分が倒れる原因が何か、分かるか?」
 真剣な眼差しに、首を振って答える。
「原因は、お前が忘れていることだ。あのガキは、『元を断たなければどうしようもない』と言った」
「黎花が?」
「アレン、お前の父がAKUMAになったときのことが思い出せるか?」
「え-----どう、して?」
 ドクンッ。
 規則正しく動いていた心臓が、不意に大きく跳ねた。
 無意識にシーツを握り締め、無言で答えを待つ神田を恐る恐る見詰める。この優しい漆黒は、決して自分を傷付けたりはしない。そう思うのに、アレンは今すぐここから逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。
「あの日も、雪が降っていたんだ」
「……」
 俯いたアレンは視線を彷徨わせ、記憶を手繰ろうと頭を抱え込む。けれどいくら思い出そうとしても、浮かんでくるのは自分が大好きだった父をAKUMAにした事実。それだけだった。
 伯爵の顔、自分の知っている父とは似ても似つかない姿、暴走する左手。切り取られた衝撃的な場面だけが断片的に記憶の中に埋まっていて、それは写真を見ているような感覚で映像にはならない。
 雪なんて、見ていない。降ってなどいない。記憶の中に、そんなものはなかった。
「知らない」
「アレン」
 強く名を呼ばれても、アレンはゆるゆるとかぶりを振った。
 だって、本当に憶えていないのだ。神田の言う通り忘れているだけだとしても、どうしても思い出せない。
「お前がこの時期に決まって倒れるのは、多分その時のことを思い出すからだ。だから心が拒絶して、体調を崩す。自己防衛と言うのかも知れねぇが……いつまでもこのままでいられねェだろ。もうすぐお前も十二だ。実戦的な鍛錬も増えて来るのに、雪が降る時期に戦えないんじゃエクソシストの意味が無ェ。……分かるな?」
 曇った表情のまま、こくんと素直に頷いた頭を「よし」と撫でる。叱られた子供のように意気消沈した身体を抱き寄せると、驚いたアレンは大きな瞳を何度も瞬かせた。
「神田……?」
「ゆっくりで良い。思い出せることから話せ」
 酷なやり方だと分かっていた。困惑する銀灰は見ている者が可哀相になるほど揺れて、まるで迷子になった子供のようだ。
 ぎゅっと目を閉じたアレンは、眼裏にあの日の始まりを思い出す。それは確かに『始まり』であり、そして『終わり』でもあった。
「マナの墓標の前で泣いていた僕の前に、伯爵が現れた。マナに……会いたいか、って訊かれて、マナの名前を呼んだ。人形が動き出して、嬉しくて、だけどマナは-----『お前を呪うぞ、アレン』って……っ」
 おそらく、そう言われたことが哀しかったのではないのだろう。
 マナの一言で、アレンは自分がどんな間違いを犯したのか気付いたのだ。
 せっかく良くなっていた顔色が青褪めていくのが痛々しい。それでも神田は震える背を撫でてやりながら、「それで?」と言葉を続けさせた。
「次の瞬間は、よく分からなかった。気付いたら、左目が見えなくて、マナが……僕を殺そうとしてた。その時に、左手が暴走して……僕の言うことなんて、利かなくて……」
 ドクンッ。
「-----っ」
 ビクッと動いた左腕が、あの時のことを思い出している。いつでも、身体ばかりは正直だ。
 左手に重ねられた低い温度が優しくて心地良い。「大丈夫だ」と言われているようで、それだけで、アレンは逃げ出さずにいられた。
「マナを壊した」
 ぽつり、と。水面に黒い滴を落としたように、声の波紋が部屋に広がった。
 長い間悔やんできたことを、思えば口にすることはなかった。もう十分に逃げ続けていたのだと改めて知り、苦しさと恥ずかしさが心の中で綯い交ぜになる。
 忘れていたつもりはなかった。忘れてしまいたいと思ったこともなかった。ただこの心は、いつの間にか逃げてしまっていた。
 ぽたぽたとシーツに落ちる涙をぼんやりと見詰めていると、不意に頭の後ろを殴られたような気がした。
 -----思い出せる。
 そう直感的に思って顔を上げると、夜空のような黒い瞳が自分を見下ろしていた。
「……き、」
「?」
 何だ?と細められた漆黒は、けれど次の瞬間大きく見開かれる。
 ドンッとぶつかるように抱き着いてきた身体を受け止めると、引き裂かれそうな声が耳に届いた。
「雪、降ってた……」
「アレン……」
「マナを壊して、何も無くなって、どうしたら良いか分からなくて……ずっと空を見てたら、真っ暗な空から……っ」
 首に回された腕に力が込められ、神田はまだ骨格の出来ていない小さな身体を抱き締めた。
   雪は、アレンにとって全てを奪い取る前兆だったのだろう。体温も、音も、命すら奪い取る冷たさは、幼かったアレンに深い傷跡を残していった。
「悪かったな……思い出させて」
 一頻り泣いて落ち着いた頃、神田はアレンを再びベッドに寝かせながら呟いた。アレンは真っ赤な目を丸くして首を振り、そして少し笑った。
「神田、僕分かりました」
 ベッドの隅に転がっていたカップを手に出て行こうとする神田の背に、嗄れた声が掛けられる。
 振り返った神田に、アレンは「ありがとう」と微笑んだ。
「黎花を無理矢理連れて帰ったのは……黎花に、大切な人たちをAKUMAにさせない為だったんでしょう?」
「俺は別に-----」
「ありがとう、神田。黎花が僕と同じ想いをしなくて、本当に良かった」
 遮られて続いた言葉の後、すーっと何かに誘われるように眠ったアレンの寝息は規則正しい。今夜はもう、魘されるようなこともないだろう。
(これで治まれば良いけどな……)
 溜息混じりに扉を開いたとき、トンッと何かに当たる感触に視線を下げた神田はぎょっと瞠目した。















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中途半端ですが、長くなりそうなので切断しました。
この話のプロット段階で「心間的距離」と「ちゅー」を何度か読んだんですが、
真面目に憤死しそうになりますね。もう内容の意味が分からないし文も酷い(苦笑)
と過去を振り返りつつ、全5話で終わるか6話で終わるか怪しいところです。
どちらにしても今年は残り二週間しかない事を肝に銘じて頑張ります。

07/12/19 canon





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