A hometown of tears 03



 黒の教団本部は標高が高い場所にあり、初雪が降るのは街よりも一週間以上早い。十一月の中頃には粉雪を見るようになり、十二月に入れば雪だるまがいくつでも作れそうなほど積もるのは毎年のことで、アレンは今年もこの季節になると空を見上げる習慣がついていた。
 どんよりとした色の雲から白い雪が舞い落ちる光景は、胸が締め付けられるような寂寥感と、心のどこかにぽっかりと穴が空いてしまったような喪失感に襲われる。
 今在る幸せはあの日の過ちが招いてくれたものであることを、そこには尊い犠牲があったことを、小さな心は声無き存在に責め立てられていた。





「あら、アレン。何してるの?」
 ぼんやりと空を眺めていたアレンは背後からの声にハッと我に返り、手に持っていたファイルをばさばさと床へ落とした。
「あッ」
 慌ててファイルを拾い始めたアレンを見ながら、声をかけた少女は呆れたような表情を浮かべた後、自らもしゃがみ込んでファイルを拾い集める。
 ありがとう、と言おうとして顔を上げたアレンは少女の片手に持っている美味しそうな飲み物に咽喉を鳴らしたが、とりあえずは目の前の惨状を片付けることを優先した。
「ありがとう、黎花。……それ、ホットチョコレート?」
「どういたしまして。そうよ、ジェリー料理長の特製」
 ふふ、と嬉しそうに微笑んだ黎花に笑顔で返し、美味しいよね、と相槌を打つ。
 本部の厨房を仕切るジェリーは優秀な料理人で、噂では、彼に作れない料理は無いらしい。
 アレンは一度、どうして多くの種類の料理が作れるのかと聞いたことがあった。その問いに、
 『黒の教団には世界中から人が集まってくるから、出来るだけ一人ひとりの母国の味を食べさせてあげたかったの。そうしたら、いつの間にか作れない料理はなかったわ』と、腰を捻りながら語ってくれた。
 作れない料理は無い。その上味も申し分ないので、知らないうちに舌が肥えてしまった団員がたまに街へ下りて食事をすると、あまり美味しくなく感じられてしまうと聞いたことがある。
 教団から出ることが少ないアレンには他の料理人の味と比べるのは難しかったが、父と旅をしていた頃に食べた料理と比較するなら、断然ジェリーの作ったものの方が美味しかった。

 ――ただそれでも、たった一つの『料理』には叶わないのだけれど。

「色んな国を旅したけれど、ジェリー料理長ほど腕の良い料理人はいなかったわ」
 はふはふと美味しそうに飲む黎花に笑みを零しながら、アレンは漂ってくる甘い香りに安心に似た気持ちを覚えていた。それは昔、風邪をひくと決まって父が作ってくれたあの飲み物を思い出すからだろう。
(マナ特製の、あったかはちみつミルク……飲みたいな)
 そう思ったことは、教団に来てから一度や二度ではなかった。
 風邪をひいたときや咽喉を痛めたときにはアレンの要望に応えてジェリーが作ってくれていたが、それは父の作ってくれたものとは違っていた。味はとてもよく似ているのに何かが足りない。けれど何が足りないのかは、作り方を知らないアレンにも分からなかった。
「黎花、すっかりジェリーさんの料理が気に入ったんだね」
「とっても!! もうずっとここに居たいわ」
 冗談とも本気とも思える言葉に、二人は顔を見合わせて笑った。
 
 黎花が本部へ来て、もう半月以上が経った。
 科学班や手の空いている団員が世界のどこかに居るかも知れない血縁者を探しているらしいが、あくまで本業が最優先なので黎花のことは二の次になっているらしい。
 そのことに関して、黎花は特に何も言わなかった。
 初めは虚勢を張ってはいたものの、今はもうこのホームの一員として過ごしている。
 相変わらず神田との折り合いは良くないが、顔を合わせても互いに口も利かないような仲なので、幸い揉め事は起きていなかった。
 アレンとしては仲良くなって欲しいという気持ちがあるのだが、それを黎花に言うと、
『無理ね。出会いからやり直すなら話は別だけど』
とばっさり言い切られてしまうので、もう口出しはしないことにした。
 同じ事をあえて神田に言わないのは、返ってくる言葉が黎花よりも辛辣なものだと分かっているからだ。
 ラビに言わせれば「二人の仲は天変地異でも起こらない限り良くならない」らしく、リナリーは「天変地異が起こるくらいなら、ずっと仲が悪いままでも良いんじゃない?」と笑いながら話した。

「でも、仲良くなったらきっと楽しいのに……」
「え、何か言った?」
 ぽつりと零した言葉を拾われ、アレンは咄嗟に「何でもない」と返す。
 首を傾げた黎花はふぅんとどうでも良さそうに頷き、話題を別の方向へと変えた。
「ねぇ、何か見てたの? ぼーっとしてたみたいだけど」
「あぁ、空を見ていたんです。もう十二月なのに、今年は雪が降らないなぁって」
「……でも、今にも降りそうな空ね」
「積もったら、遊びましょうね」
「もちろんよ」
 約束、と小さな小指を絡め、額をこつんと合わせる。
 えへへ、とどちらも照れたように笑っていると、不意に黎花が驚きに目を見開いて離れ、状況が理解出来ないアレンもまた目を丸くした。
「黎花?」
 口をぱくぱくと開閉させる顔は、可愛いらしいがどこか魚を連想させる。
 もちろん思っただけで口にはしなかったが、次の瞬間に張り上げられた声に、アレンは更に目を見開くこととなった。
「『何?』じゃないわよ!! アレン、凄い熱じゃない!!」
「へ……?」
 ことりと首を傾げ、そろそろと掌を額に当てる。
 確かに、少し熱かった。
「別に、咽喉も痛くないんだけどな……何でだろう」
「理由なんてどうでも良いわ!! 今すぐ部屋に戻りなさい。私は人を呼んで来るから、分かった!?」
 捲くし立てるように言われては首を振るわけにもいかず、アレンは大人しく言うことを聞くことにした。
 空になったカップを片手に全力で廊下を駆けて行く背を見送って踵を返すと、少しだけ頭がふらつき、呼吸が乱れていることを初めて自覚した。
(でも、本当にどうしてだろう)
 季節的に考えれば風邪をひいてもおかしくはないけれど、体調を崩さないように気をつけていたつもりだった。
 昨日の夜も特別変わったところはなくて、それは誰よりも自分が分かっている筈なのに……。
「変なの」

 その「変な」ことが今回が初めてではないことをすっかり忘れて、アレンは壁に手を着きながら自室へと戻った。










「特に変わったところは無いね……もう少し様子を見ようか」
 ぽんっと頭を撫でられ、少し色付いた頬のアレンは黙って頷いた。
 部屋に戻ってベッドに潜り込んだところで、丁度黎花がコムイを連れて来た。随分と急いで来てくれたらしく、二人ともしばらくは呼吸が乱れていた。
 コムイが診察している間、壁に背を預けた黎花が見詰めているのに気付いて笑いかけても、廊下で話していたときのようには笑い返してくれない。
 唇を引き結んで心配そうに眉根を寄せている表情はいつも元気な少女には似合わなくて、アレンはそんな顔をさせてしまっている原因の自分を少し責めた。
「原因が分からないと薬も処方できないから、とりあえず今日は一晩ゆっくり寝てね」
「もし夜中に悪化したらどうするの?」
 沈黙を守っていた黎花が、診察終了と判断して口を開く。
 問われたコムイは安心させるように微笑むと、アレンにしたように、ツインテールの頭を優しく撫でた。
「その時は熱冷ましの薬だけでも渡すよ。原因が分からないようじゃ、下手に飲ませるわけにはいかないからね」
 渋々といった表情で納得した黎花は傍にあった椅子を動かしてベッドの横に置き、膝を抱えて座った。
 風邪ではないのでうつる心配は無いと判断してか、コムイは「もし変わったことがあったら呼びに来てね」と言い残して部屋を出て行く。
 後には、少しの静寂が満ちた。
「大丈夫だよ。きっとすぐ治るから」
「治ってもらわなくちゃ困るわ。……雪遊び、するんだから」
 抱えた膝に顎をのせて呟いた言葉に、アレンは思わず笑ってしまった。
 今までは大抵一人で雪だるまを作ったり雪兎を作っていたりしたけれど、今年は雪合戦が出来るかもしれない。本で見ただけの遊びでルールはいまいち分からないが、きっと皆でやれば楽しいだろう。
「はい、早く良くなりますね」
「当然よ」
 その答えに安堵したのか、黎花は少しだけいつもの調子を取り戻し、その顔には笑顔が戻った。
「何か欲しいものがある?」
「……ジェリーさんのあったかはちみつミルク、お願いしても良い?」
「分かったわ。少し待ってて」
 部屋を飛び出していった黎花の足音が遠ざかるのを聞きながら、アレンは詰めていた息を時間をかけてゆっくりと吐き出した。

 風邪ではないけれど、熱があるというだけで身体はぐったりしているし寒気もある。
 余計な心配を掛けまいと始終笑顔でいることも本当は少しだけ辛いが、せっかく調子を取り戻しかけている少女の笑顔が曇る方が、アレンにとっては堪えられなかった。
(でも、マナのときもそんな風に我慢して、結局怒られたっけ)

 まだマナと二人で旅をしていた頃、ある街でアレンは熱を出した。
 あの時は原因が風邪だと分かっていたので、その街に滞在している間、アレンは絶対安静を言い渡されて宿でマナの帰りを待つだけの日々が続いた。
 いつも一緒に居る人が居ない、不思議な感覚。
 ベッドの上で待つだけの時間は退屈で、窓の外から聞こえる子供たちの笑い声は必死に押し隠そうとする寂しさを無遠慮に暴いていく。
(でも、僕が寂しいって言ったらマナが困るし……)
 子供らしいようで、子供らしくない考えだった。
 それから数日経ち、ようやくアレンの笑顔のぎこちなさに気付いたマナは自分を責め、違う意味でアレンのことも叱った。
『気付けなかった私も不甲斐無い。だが、辛い時に笑う必要がどこにある?』
 厳しくて難しくて、優しい言葉だった。
 押し黙ったアレンの瞳に薄っすらと涙が滲み、それは零れ落ちる前に、マナの指に受け止められる。
『今日は休業だ。久々に、私ものんびりしたい』
 そう言って、マナは一日中傍に居てくれた。
 本を読んだり、話をしたり、とても他愛の無い時間だったけれど、今となっては全てが宝物のような時間だった。
 

ずっと、あの日々は続くんだと、信じていた。
 

「ッ、は……」
 不意に、胃の辺りがきりきりと痛んだ。
 シーツの中で背を丸めて痛みをやり過ごそうとするが、それは酷くなるばかりで一向に治まる気配が無い。
 原因不明の事態に不安が募り、視界が滲む。
 あの時、熱を出して宿で寝ていたときにもこんなことがあったな、と霞む意識の中で思い出した。
(あの時は、どうしたんだっけ……丁度、マナが帰って来てくれたのかな……)
 だけど、もうマナは居ない。
 帰っては来ない。
 だって、マナはこの手で――、
「アレン、持って来たわよ。ジェリー料理長の特せ――」
 
 ガシャンッ。

 扉の開く音がして、何かが壊れる音がした。
 誰かの叫ぶ声がして、その後に複数の足音が聞こえた。
 それ以上はもう、アレンの耳には何も聞こえなくなった。










「大丈夫だって、な? アレンならすぐ良くなるさ」
 夕飯を食べる手を止め、ラビは目の前にある食事に全く手を付けようとしない少女の顔を覗き込んだ。
 大きな瞳は曇っていて、目尻は赤く腫れている。その理由をつい先程帰って来たラビは人伝に聞き、アレンが意識を失ってからというもの何も食べていないらしい黎花の相手を引き受けたのだ。
「だって、私が離れたりしなかったら……」
 食堂から戻り、扉を開けた瞬間に目に飛び込んできたのは、真っ青なアレンの顔。苦しそうに乱れている呼吸が、何かに助けを求めていた瞳が、眼裏に焼きついて忘れられない。
 あの時、どうして離れたりしたのだろう。
 もし傍に居たら、あんなに体調が悪くなる前に気付いてあげられたのに――。
 ひどい後悔を胸に残して、黎花は大人たちに促されるまま部屋を後にしたのだ。
「あれは精神的なもんなんさ。色々あったかんな、アレンも……」
 聞いてる? とラビから目顔で問われ、黎花は緩く首を振った。
「ラビが知っていても、私聞かないわ。アレンの大事なことなんでしょう? もし聞くのならアレンからじゃないと駄目。ルール違反になるもの」
 だから言わないでね、と真剣な瞳で言う少女の頭を、ラビはくしゃくしゃと撫で回した。
 初めて会ったときにアレンの提案で始めた『ゲーム』は、未だに二人の間で続いていた。 
 ルールは、「答えたくない質問には答えない」という単純なもので、結局のところ、お互いのことを知るのが目的だった。
「本当に仲良いのな」
「悪くないわ。でも、アレンって時々分からない」
「『分からない』?」
「笑っているくせに、泣いてるみたいな顔するんだもの」
 憮然と言った黎花の言葉に、ラビは息を呑む。
 それはきっと、アレンの中の本質に一番近い部分だった。
 いつもは隠し通せていても、何かの条件が重なった時、不意に零れ落ちてくる本当の姿。瞬く間にしか見えないようなそれを見付けられるのは偶然か、それだけアレンのことをよく見ているということだ。
 その特別さに気付いていない少女を見下ろし、ラビは眼帯をしていない方の目を細める。
(ユウ以外だと、俺の知る限り二番目か)
 因みにラビは神田から似たようなことを言われて初めて知ったので、ブックマンの後継者としては悔しいが自分を数には入れなかった。
 考えてみると、アレンを共通に神田と黎花は少し似ている気がする。
 意地を張って互いに譲らないところはもちろん、アレンの些細な変化に気付く辺りはまさに似た者同士というより他に無い。
 いくら洞察力に自信のあるラビでも、おそらくこの二人のアレンに対する無意識の注意力には敵わないだろう。
「アレン限定のブックマン? いやいや……」
「何言ってるの?」
 大丈夫? と手の平を額に当てられて苦笑を浮かべていると、突然出入り口の方で大きな声があがった。
「誰か〜、アレンちゃんにご飯持って行ってくれな〜い!?」
 なんだなんだと誰もが顔を見合わせていたとき、即座に反応したのは、やはり黎花だった。
「私が行くわ!!」
 小さな身体で存在を主張するように椅子に立ち、手を上げて跳ねる少女へと視線が集まる。だがその視線はどこか不安気に曇っていて、黎花は意味も分からずムッと唇を尖らせた。
「私じゃいけないの?」
「いけない、ってことはないさ。ただアレンの場合は量があるからなぁ」
 腰に両手を当てて不満を漏らすと、隣で成り行きを見守っていたラビが口を挟む。
 その言葉に落ち着きを取り戻した黎花は、ハッとあることを思い出した。
 初めての『ゲーム』で、アレンは好きな食べ物は何かを尋ねた。きっとお腹が空いているのだろう、と察して食堂へ行ったは良かったが、問題はそこからだった。
 注文の窓口へと嬉しそうに走り、軽やかなアルトが喋り始めた実に三十品目以上の料理名。
 正直、ジプシーの仲間と旅をしていた時でさえこれだけの料理を見るとはなかった黎花の目には、一瞬だけアレンが人間以外の生き物に思えた。
 あの量は、一人ではとても運べない。
 仮に運べたとしても、何往復かは覚悟しなければならないだろう。
「……体調が悪くても、あんなに食べるかしら」
「寄生型は完全に体力勝負だかんなぁ……」
 食堂全体が「じゃあ皆で持って行くしかないか」という雰囲気に包まれ始めたとき、うるさいほど騒がしい空間に凛とした声が響いた。
「今日までは粥で良い。明日になれば自分で来て食える」
 その声の方向に、その場に居た全員が思わず注目する。
 そこにはいつの間に帰っていたのか、任務で一週間前に教団を発ったばかりの神田が居た。
「あれ、ユウ? いつの間に任務から帰ったんさ。今回の任務、結構近場だけど手古摺るかと思ってたさ」
 予定よりも早い同僚の帰りに、ラビは席を立って出入り口へと足を向けた。途中、ふと自分の後ろに隠れて歩く黎花を一瞥すれば、その瞳が不機嫌も露に細められているのに気付く。
(眉間に皺までそっくりさ)
 口にすれば両方から暴行を受けるような思いを舌の上で転がせば、咽喉から押し殺した笑いが短く零れた。
「おかえり。アレンのこと、聞いたさ?」
「この時期になると毎度のことだ。ただの知恵熱だろ」
「ご名答」
「知恵熱? あんなに青い顔をしていて、あれが知恵熱だって言うの?」
 死んでしまうのかと思ったのに。
 それくらい苦しそうで、それがただの知恵熱のせいだって言うの?
 その会話に納得がいかなかった黎花は神田とラビを交互に見上げ、キッと目を吊り上げた。
「さっき、精神的なものだって言ってたじゃない。それに『毎度のこと』って……それって元を断たなきゃどうしようもない話でしょう!? どうして誰も、何もしてあげないのよ!!」
 食堂全体に響き渡った悲鳴に近い声は、思いの丈そのものだった。
 アレンはもう何度も何度も繰り返し、あんなに辛そうな目に遭っている。それを知っていて、どうしてこの男は『毎度のこと』なんてあっさり言い切ってしまえるんだろう。
 一緒に居るとき、アレンの口からは『神田』という言葉がよく出てくる。出てくる回数が多ければ、その名を口にするときの笑顔も多くて、アレンにとって『神田』がどれだけ特別な人間か知っていた。
(なのにっ、この馬鹿男……!!)
 自分がどれだけ想われているかも知らないでそんな冷たい言葉を吐くなんて、あんまりだ。
「ジェリー料理長!! アレンには私が持って行くから!!」
「はい、どうぞ」
 タイミング良く窓口から出てきた野菜たっぷりの卵粥は、大食らいのアレンのことを考えて大きな器に入れられていた。その所為で少し重くなっているものの、何品もの料理を何度も運ぶよりは全然楽だ。
 トレイに乗せたそれを慎重に持ち、よしっと小さく意気込む。
 食堂を出て行く背中を一同が見送る中、一度扉を出たところでひょこっと顔を出した黎花は、
「来るなら来ても良いけど、清潔にしてきてよね」
ビシッと人差し指を突きつけ、置き土産と言わんばかりに任務帰りの神田の眉間に深い皺を刻みつけていった。















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07/10/31 canon





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