カンダは真夜中に目を覚ました。
呼吸が随分楽になっているので、どうやら熱は下がったらしい。
数日続いた熱の後遺症は頭が覚醒しても思うように動いてくれない身体に残っていたが、それもしばらくすると徐々に慣れ始める。
「あいつ、どこ行った?」
誰に尋ねるでもなく呟く。
分かりきっていたことで、答えはどこからも返らなかった。
激しい眩暈と吐き気に襲われたあの日から、すでに一週間。
あれほど取り乱したアレンを見るのは初めてで、カンダは「死ぬかも知れない」と思いながらも、心の隅では「次会ったらどんな顔すりゃ良いんだ」と思っていた。
だが、いざ目を覚ましてみれば何の事は無い。
アレンは普段通りに身の回りの世話をし、庭に出て雪と戯れ、カンダを揶揄ってはまたふらりと姿を消す。その繰り返しだ。
あの日のことは、まるで夢のように思える。
いや、夢であったのだと、あの吸血鬼は思わせたいのかも知れない。
「……チッ、勝手な奴だ」
上半身を起こし、ぐるりと部屋を見回す。
アレンが神出鬼没なのは今に始まったことではないが、カンダが床に臥していたこの数日はずっと傍にいた。
熱が下がったことを確認してまた消えたのか。
それとも屋敷のどこかに居るのか。
肩膝を立てて頬杖をついて考えていると、不意に天井が軋んだ。
ハッと顔を上げ、アレンが居ることを察する。
それと同時に、まさか、という思いが過ぎった。
カンダは布団を蹴るようにして立ち上がり、乱れた寝着を手早く直して二階へと階段を駆け上がる。
そんな筈は無い。
あの部屋には鍵が掛かっている。
誰も、この家を譲り受けた人間すら、誰も入ることの出来なかった部屋。
-----足早に近付いてみると、その部屋の扉は僅かに開いていた。
信じられないような気持ちになるが、唾を飲み込んで扉を押せば、そこにはやはりアレンが居た。
「お前、どうしてここに……」
ぼんやりと視線を彷徨わせていた銀灰が、ゆっくりと振り返る。
「カンダ……熱、下がった?」
「質問に答えろ」
訝しげに問う声が、強いものに変わる。
それは屋敷の主に何の断りも無しにこの部屋へ入ったからではなく、何故この部屋へ入ることが出来たのかという意味だった。
「……別に、不思議じゃないよ」
目蓋を伏せたアレンはポケットを探り、一つの鍵を取り出す。
手渡されたそれはカンダの、-----この屋敷の主の見覚えの無い物だった。
「ここ、僕の部屋だから」
「な、」
「僕が人間だった頃の、僕の部屋。だから僕が鍵を持っていてもおかしく無いでしょ?」
言っていることの意味が、分からなかった。
目の前に居る存在は何なのだろう。
この存在は、一体「何」だ?
理解が出来ないという顔をしているカンダに、アレンは苦笑を漏らした。
「この屋敷の最初の主はマナ・ウォーカー。僕は彼に拾われた養子……アレン・ウォーカー」
今は吸血鬼だけどね。
淡々と抑揚の無い言葉が、端だけを少し吊り上げた唇から零れた。
「昔話を、しようか」



今から百年以上も昔、身も凍るほど寒い冬のある日。
ある屋敷の前に、生まれて間もない子供が捨てられていました。
それを見つけた屋敷の主人には妻も子も無く、彼はその赤ん坊を自分の子として育てることにしました。
ただ、子供は生まれつき身体が弱く、幼い頃から医師に永くは無いだろうと言われていました……。
子供が大きくなり、彼は自分たちが本当の親子ではないことを子供に話しましたが、子供にとってはそんなこと関係ありませんでした。
空に浮かぶ雲の形の名前を、庭に咲く花の名前を、この世で生きていく為の術を、教えてくれたのは他でもない、「父さん」と呼び続けた人だったからです。
二人は本当の親子では無いけれど、お互いを大切にしていました。
-----月日は過ぎ、二人が出会ったあの寒い冬のような日、子供は一人ベッドの上に居ました。
目覚めているというのに起き上がることも出来ず、咽喉は掠れて父を呼ぶことも叶いません。
あぁ、僕は死んでしまうんだ。
子供は思いました。
哀しくて寂しくて、一目で良いから父に会いたいと願いました。
窓の外に降る雪を見詰めながら、子供は涙を流して願いました。
すると、突然部屋の中に一人の男が現れました。
男は声の出ない子供の耳元で、とても魅惑的な言葉を囁きます。

「生きたいデスカ?」

子供は目を見開きました。
何も分からない子供にとって、目の前に迫っている選択は二つ。
『生きて』父の胸へ飛び込むか、『死んで』あの雪のように冷たくなるか、それだけでした。
この男の人は誰なんだろう。
どうやってこの部屋に入ったんだろう。
そんな当たり前の疑問も、この時、子供の頭には浮かばなかったのです。
そして、子供は選びました。

いきたい。

それは声になっていない、ただの音でした。
ですが唇の動きを読んでにんまりと笑った男は、子供の頭を撫でた後、



「首筋に牙を突き立て、子供を自分と同じ種族へと変えてしまいました」
しんしん、と。
音も無く降り積もる雪のように話し終えたアレンは、言葉を紡ぎ出せないらしいカンダへと近付き、その身体にゆっくりと両腕を回した。
「続き、まだあるよ。聞きたい?」
見た者を虜にするような双眸が、漆黒の瞳を覗き込んだ。
銀灰の瞳に映る自分を見詰めながら、カンダは戸惑いを押し隠し、ゆっくりと頷く。
その返事を受けたアレンは「わかった」と呟き、カンダを抱き締めた腕はそのままに言葉を続けた。
「子供は吸血鬼へと覚醒しましたが、急速に作り変えられていく細胞の変化についていけず、一時は錯乱状態に陥りました。衝動的に物を壊し、焼け付くような咽喉の渇きに悶え苦しんでいると、突然部屋の扉が開き、そこには……」
ぎゅ、と。
手を回された背中に、爪が食い込んだ。
「獲物が、立っていました」
「え、もの……?」
力無く、首が縦に振られた。
「僕には、獲物にしか見えなかった。恐怖と、絶望と、激しい哀しみに歪むマナの顔が……糧にしか見えなかった」
「まさか、お前ッ」
ずるり。
膝から崩れ落ちたアレンを咄嗟に支えようとしたが、体調が万全では無かったカンダも床に膝を着いた。
小刻みに震えて大きく見開かれた瞳からは、今にも涙が零れ落ちそうだ。
だがそれはあくまで“そう見える”だけで、実際、アレンの瞳に涙は浮かんでいない。
それは、どこか奇妙な光景だった。
泣くことを堪えているのでは無く、『泣く』という行為が出来ないとでもいうかのような-----。
「気付いたときには、マナは死んでいた。哀しくて、哀しくて、髪の色が変わるほど哀しんだ」
ふっと息を吐くように笑い、アレンはカンダを見上げた。
「あの話を、憶えてる?」
「あの話?」
鸚鵡返しに問えば、あの桜の樹の話、と短い答えが返ってきた。
そこでようやく、アレンが何のことを言っているのか気付く。

『カンダ、桜の花びらがどうして色付くか、知ってる?』
『……その下に死体が埋まっているから、なんて馬鹿なこと言うなよ』

あの話、だ。

「あの下にはマナが眠ってるんだ。……血の無い死体が。だから、桜が死者の血を啜って色付くなんて嘘。ただの作り話」
「お前は、それからどうしたんだ」
「気付いたとき、もうあの吸血鬼はいなかった。その後はマナを埋めて、屋敷の中を片付けて、この部屋に鍵をかけて出た。何年かすると人が勝手に住み着いたから、『この庭の花を絶やすと呪われる』とか適当なことを言って、次々に移り住んでくる住人に同じことを言うよう頼んだ」
「……お前だったのか」
「うん、そう。……マナが寂しくないようにしたかったんだ。何十年経っても、何百年経っても」
深く、長い息が吐かれる。
話し続けたことに疲れたのか、それ以外の理由でかは分からない。
ただやはり、切なく寄せられた眉に似合う滴が、零れ出ることは無くて。
「泣けないのか?」
気付けばそんな事を口にしていた。
驚きに見開かれた瞳に、つられて驚く。
まさか、本当に?
それは人ならざる者故か、と尚も訊こうとしたとき、
「呪い、かな」
苦笑気味に紡がれた言葉は、不穏な単語だった。
「マナは、最後に『愛してる』って言ってくれた。だけどその前に、『お前を呪うぞ、アレン』って言ったんだ」
どっちが本当なのか、分からない。
だけど、それでも僕はマナが好きだよ。
語る口調に懺悔の想いが乗せられていたことに、カンダは気付いていた。
気付いていて、それ以上は、何も訊かなかった。
何も……訊けなかった。
「ッ、」
どんっ、とぶつかるように倒れかけてきたカンダを、今度はアレンがしっかりと支える。
両手を背に回し、乱れていく呼吸を落ち着かせるように、気休め程度に撫でた。

「さよならだね、カンダ」















神様、
神様、聞こえますか。
聞こえたなら、
どうか安らかに、この人をあなたの傍へ導いて。















アレンは一度意識を失ったカンダを彼の部屋へと運び、布団へ寝かせた。
何か欲しい物はあるか、と訊いても返る答えはなく、苦しそうに喘ぐ姿を見詰める時間だけが過ぎる。
何かできることがあれば良いが、何もできないことは分かり切っている。
もし「何か」できたなら、もっと早くにそうしていた。
今はただ、手を握っていることしか出来ない。
吸血鬼が、人ならざるものが一体人と何が違うというのだろう。
結局、肝心なときには無力な生き物でしかない。
「っな、んて顔、して……ッ」
「何も……何も無いよ。喋らないで」
息も絶え絶えに言うカンダの頬に、空いている手で触れる。
何度あるか分からない熱に冷え切った手は心地好かったのか、少しだけ目許が和らいだ気がした。
終わる。
終わってしまう。
いかないで、
逝かないで。
握り締めた手を頬に寄せ、縋るように願った。
「泣く、な」
熱い指先に優しく目尻を撫でられる。
それはまるで涙を拭い取るような仕草で、アレンは小さく笑った。
「泣いてないよ」
「俺が死んだら……また、ここで、あの桜を-----」
見守り続けるのか?
たった一人で、この庭の花と共に。
永い永いときを、たった独りで。
目蓋を伏せたアレンはしばらくの沈黙のあと、ゆるゆると首を振った。
「君を待つよ。時を越えて、また君に会う」
「は、ンなの、気付く筈無ぇ」
「見付けてみせる。そしてその時は、僕が君を開放する」
強い眼差しには、決意の色が宿っていた。
きっと、止めても無駄だろう。
寧ろそれがこいつの生きる理由になれば、好きにすれば良い。
カンダは「そうか」とだけ言い、自由な左手をアレンの前へ突き出した。
「前払いだ」
そう言われて差し出された左手の手首には、紫紺の数珠が填められていた。
記憶にある限りでは、カンダが肌身離さず付けていた物。
無頓着な彼がずっと持っていたということは、何か意味があるに決まっている。
そんな大切な物、貰えない。
「良いよ。僕が勝手に決めたことだから」
「……別に、大したモンじゃねぇんだから、受け取れ」
「要らない」
「じゃあ、何が要る」
訊かれ、戸惑った。
だって、求めたって、君は僕を置いて逝ってしまう。
沈黙が続き、視線だけが絡み合う。
瞬きの間すら勿体無い。
この時が、永遠であれば良いのに。
「……吸血鬼になることを自ら望んだ人は、生まれ変わることが出来ないんだって。だけど、聖刀に貫かれた者は罪を償う意味で、また生まれることが許されるって、どこかで聞いた」
「作り話か」
「さぁ」
困ったようにも呆れているようにも見える漆黒が、ふっと細められる。
何?と、口を開こうとした瞬間、唇に温かなものが触れた。


「-----、  ン」
「え……?」

引き合う力に従って、
首の後ろを掴んだ手が、触れた体温が、重なった唇が、離れた。
呪いに従って、
畳の上へと倒れた身体が、着ていた洋服と、左腕に填めていた数珠を残して、灰と化した。

    て。

   して。

  うして、

「っ、ぅああああァアアッ!!」

どうして、伝えられなかったのだろう。
人と、吸血鬼だって、良かったじゃないか。
些細な、ことだったじゃないか。
だって、僕たちは確かに-----、


約束だ、アレン


灰に埋もれる寝着を掴み、微かに温もりが残るそれを抱き締める。
心の中にぽっかりと空いた空洞に、何を詰め込めば良いのか分からない。
分かっているのは、もう二度と彼に会うことは無い、その事実。
「さむい」
さむいよ、かんだ。
そう言ったら、彼は鼻で笑ってこう言うだろう。
『吸血鬼は寒さなんて感じねェだろ』

「だけど……寒いんだ」

凍えてしまいそうに、何もかもが冷たくて、寒くて、堪らない。
ただ瞳の奥だけが熱くなって、それでも涙は零れ落ちてはこなくて、それが一層アレンの心を苛んだ。
初めて好きになった人を救う手も持たなければ、自分を初めて好きになってくれた人の為に流す涙さえ持たない。
「カンダ……」
返らない声を求める唇を、血が滲むほど噛み締める。
随分と生き血を吸っていない所為で錆びた鉄の味が口腔を這い、その不快さについ顔を顰める自分は、あぁやはり吸血鬼なのだと思い知った。
俯いていると、ふと灰の中で鈍く光る物を見つける。
それは『前払いだ』と一度は正式にアレンの持ち物になりかけた、あの紫紺の数珠だった。
「灰に、ならなかったんだ」
填めてみると、カンダの手に合わせた大きさの数珠はアレンには少し大きかった。
「ほんとに、貰って良い?」
誰にとも無く。
否、今となっては灰となった彼へ問い、美しい珠にそっと口付ける。
当然冷たいと思っていた筈のそれは、まだほんの少しだけ温もりを残していた。
「絶対に見付けてみせる。どんなに永い時をかけても、どんな手を使っても」
傍にあった聖刀を手に取ると、討つべき者と認識したそれはアレンの左腕を突然蒼い炎で包んだ。
痛みと熱に侵される腕を見詰め、刀を持つ手に力を込める。
「繰り返されてきた辛苦の転生は、この手で終わらせる」
その為に協力して。
僕に力を貸して。
全ては、彼の為に。
その想いに応えるかのように、一瞬後、聖刀は炎を揺らがせた。
「……ありがとう」















待ってる。
永いときを、たったひとりでも。
約束を叶えるために、
約束を叶えてもらうために。

ずっと、ずっと待ってるから。















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タイトルは「散(サン)」と読みます。
次回でこの話は終わりです。

07/10/24 canon





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