海の上に浮かぶ城−14

丸く切り取られた船窓を高波が打ち、その割れそうな勢いに、アレンは大きく不規則に揺れるキャビンの中で 固定されたベッドに必死でしがみついていた。 最近になって手の空いた水夫からマストの登り方を教わり始め、「バランス感覚が良い」と褒められたばかり のアレンだったが、平衡感覚の可笑しくなりそうなこの揺れにはさすがに堪えられなかった。 上では嵐から船を守る為に船長である神田が怒号を飛ばし、航海長のラビが的確な指示を与えて多くの水夫が 走り回っていると思うと、アレンは一人居たたまれない思いに駆られてしまう。 ぼんやりと宙を見上げれば、船の揺れなどお構いなしに舞う一羽の小鳥の姿。 キャビンの中を飛び回るティムキャンピーには平衡感覚など関係なく、それを恨めしく見詰めるのはお門違い だと分かっているのに、慣れない船酔いは白いアレンの頬を蒼白にまで追い込もうとしていた。 「アレン殿、失礼しても良いですか?」 「あ、はーい・・・・・・」 不意に、波の音に掻き消されそうなほど控えめなノックが二回ほど響き、アレンは抱え込んでいた羽根枕を放 ってベッドから起き上がった。 フラつく足取りで扉まで辿り着き、鍵を開けてギギ・・・・・・と鳴く扉を引く。 聴覚を刺激する音は何であれ耳にしたくなかったが、こんな時ばかりは仕方無いだろう。 「船酔いから少しは回復されましたか?」 「トマさん・・・・・・それが、残念なんですけ、ど・・・・・・ぅ、ッ」 両手で口許を押さえたアレンを心配そうに見ながら、トマはもう一度「失礼します」と言ってキャビンの中へ 入った。 こめかみの奥を直に刺激される違和感の拭えないアレンは再びベッドへと横になり、トマに何の持て成しも出 来ない事を謝罪する。だが、黒耀お抱えの医師はまるで気にした様子は無く微笑み、持ってきたらしい水を瓶 からカップへと注いでアレンに渡した。 先日、思わぬ再会を果たしたクロス元航海長を港へ下ろす際に新しく積んだ水にはまだ甘さが残っていて、空 っぽな胃の中に落ちるのはヒヤッとしたが、気分は一気に良くなった気がした。 「ふぅ・・・・・・ありがとうございました!!」 「どういたしまして。新鮮な物は何でも、生き物に力を与えますからね」 長い航海では、ちょっとした傷口を消毒する為にもアルコール度の強いワインが活躍する事が多い。 水はすぐに腐ってしまうし、そんな時に酷い嵐に巻き込まれれば荷を軽くする為に一番に海の藻屑と化すのは 水の入った樽だとラビが言っていた。 元々酒好きな黒耀の人間はワインがあれば十分なのだろうが、アレンが神田に『消毒する前に傷口を洗うのは 新鮮な水が一番なんです』と煩く言っていたので、前の港で嫌々ながら積んでくれたらしい。 「アレン殿が神田殿に言ってくれたおかげで、水夫の怪我も早く治る者が増えました」 「傷を洗う為・・・・・・なんて言いながら、僕飲んじゃってますけど」 「傷を外から清めるのも、内から清めるのも、本人を健康体に戻す事に変わりはありません」 医師らしい口振りで話すトマはふと船窓の外を見遣り、アレンもつられて視線を向ける。 未だに雨は降り続いているが、朝よりは随分マシになった方だろう。小雨になったわけでも雨雲が切れたわけ でも無いが、船を揺らす風だけは少し穏やかになったようだ。 「夜には雨も上がりそうですね。嵐の後は、きっと星がよく見えますよ」 アレンはトマが持ってきてくれた水を飲み干し、「それは良かった」と大きく安堵する。 安心した所為か、あの揺れの所為で空っぽになった胃が空腹を訴え始めていたが、おそらく水夫たちは朝ご飯 もろくに摂っていない。アレンだけは「酔った時に吐く物が無いと辛いだろうが」との船長命令で軽い朝食を 摂っていたのだが、それも船長の言葉通りに胃の中からは消え去っていた。 何かやる事があれば気も紛れるのだろうが、甲板に出ていっても足手纏いにしかならないだろう。 自分に出来る事の少なさを改めて思い知らされたアレンは小さく溜息を零し、羽根枕を掴んでギュッと抱き締 めた。 「トマさんは、師匠が航海長だった頃から黒耀に乗ってるんですか?」 「クロス航海長の事ですか?えぇ、そうです。私も以前は水夫長をしていたのですが、足に怪我をして・・・・・・ 一度船を下りて医学の勉強をし、またこの船に戻ってきました」 「水夫、長?水夫長って、何だかイメージと違いますね・・・・・・あっ、ごめんなさい!!」 感じたままに感想を述べたアレンは、ハッとして慌てながら頭を下げた。 人は見掛けで判断するもので無いし、例えゴズのような強靱な肉体を持っていなくとも、器量と才があれば重 要な役を与えられることもある。 ただそれが荒くれ者の水夫達を纏める“水夫長”だった事が意外だっただけで、決してトマ自身を軽んじるよ うな見方をしたわけではなかった。 説明しようと口を開けば言い訳じみた内容を喋ってしまいそうで、アレンは眉根を寄せて困惑する。 そんなアレンを見て可笑しそうに笑ったトマは、「気にしないで下さい」と柔らかに返した。 「船長とクロス航海長が、多く居た水夫の中から何故か私を指名したのです。周囲からも非難の声はあがりま したが、結局私は怪我をするまでの間、どうにか水夫長を務めました」 目を閉じたトマの表情に、アレンはふと穏やかな気持ちになる。 昔を思い出す人の顔は、何故こんなにも嬉しそうなのだろうか。 「黒耀は、昔から良い船だったんですね」 「前回も今回も、最適の人材が船を纏めていますからね」 「師匠も・・・・・・最適でした?」 「もちろん。彼の傍若無人な性格はまさに海賊に相応しく、誰もが慕っていたのです」 トマの浮かべる微笑みに、嘘や偽りは無い。 “師匠”としては問題のある人だったけれど、航海長としてはとても良い人間だったのだろうと思うと、ア レンも少しは師を見直せた。 アレンの知るクロスは女と酒にだらしない人物で、『酒は呑んでも呑まれるな、女は喰っても喰われるな』 と言いながら、やはり両脇には美女を、手には酒の入ったグラスを傾けていた。 説得力の欠片も無いクロスを、アレンは何度呆れ果てた目で見たか覚えていない。 金遣いは荒い、人遣いは荒い。それでもこの黒耀では水夫が慕っていたというのだから、クロス・マリアン という男は天性の海賊男だったのだろう。 「あれ?そういえば・・・・・・気になっていたんですけど、黒耀の水夫さん達の給金って誰がしてるんですか? この間、カードで賭をした時皆さん結構持っていたんですけど・・・・・・」 水夫もそうだが、この船で一番取り分が多いとすれば船長である神田、航海長のラビに、水夫長・・・・・・とい う順ではあるのだろうが、その金銭の出所をアレンは知らなかった。 偶に食料を買い込む為だけに立ち寄る港町でも、船を降りたときにはアレンの物も神田が買ってくれる。 水の都で唄ったときに蓄えた金はまだ残っているが、「必要な時がくる」と言われて、なかなか遣わせて 貰えていなかったのだ。 「難破している船から高価な物を獲る事は、海賊なら当然です。それを高く買い取ってくれそうな港町の業 者に売ったり・・・・・・後は、偶に余所の船も襲いますね。もちろん貿易船では無く個人の貴族船が多いですが、 それは一部の海賊です。黒耀が今までで襲ったのは、私が覚えている限りでは同業者だけです」 同業者、つまり同じ“海賊”という事だろう。 「海賊同士って・・・・・・怪我とか、」 「そうですね・・・・・・深い傷を負う者も出ます。時には、命を落とすことも」 「・・・・・・」 今更。 怖いと思ってしまうのは、争いに巻き込まれて命を落とすかも知れないというリスクじゃない。 怖いのは、大切な人達を失くしてしまうかも知れないこと。 そんな時に戦えない自分の存在は、足手纏いにしかならないこと。 アレンはきゅっと唇を噛み、剣蛸など一つも無い自分の両手を握りしめた。 「僕も、戦えるようになりたいです。来るべき時のために」 争わずに済む方法を探すより、まず剣を取って自らを鍛える方が重要なのだとアレンは黒耀に乗って思った。 水の都で逃げ惑う最中、あの時は神田が居たから助かったが、アレン一人ではきっとどうにもならなかった。 陸の上でも海の上でも、何一つ満足に出来ない。自分自身すら、守れない。 そんな事では、いつか船からも神田からも見放されてしまうのではという一抹の不安も過ぎった。 「慌てる必要はありません。誰もが初めは、何も出来なかったんですから」 「でも・・・・・・次の冬が来たら、僕も水夫見習いくらいには・・・・・・」 「決めるのは神田殿ですが、僭越ながら私からも口添えをします。船の為に、自分の為に何かしたいと思う アレン殿の心を無下にするような子でもありませんしね」 トマの言葉に、アレンは思わず目を丸くした。 『子』というのは、もしかしなくても神田の事なのだろうか? 確かにクロスが航海長していた時からの古株であれば、神田やラビの事も幼い頃から知っているのだろう。 けれどまさかこの船に船長を『子』呼ばわりする人物が居るとは思わなかったアレンは、一瞬後、弾けたよ うに笑い出してしまった。すると今度はトマが目を丸くする番で、アレンはどうにか笑いを収めると何度か 咳き込んで目尻に浮かんだ涙を拭った。 「っ、ここのところ船酔い続きだったから・・・・・・久々に笑いました」 「あぁ、そういえば随分波も穏やかになったようですね」 窓の外は未だにどんよりとしているが、船の揺れが激しくなくなったことはアレンにも分かる。 時折大きな波が寄せるものの、もっと酷い揺れを体験した後では可愛いものに思えてしまった。 「上に行ってみても大丈夫ですか?」 「もう大丈夫だとは思いますが、滑りやすくなっているので気を付けて下さい」 「はい!!」 大きな返事をすると、船酔いからほとんど回復したアレンはベッドをぴょんっと飛び降り、慌ただしく自分 の―――正確には“神田の”だが―――キャビンを出て行った。 「マストのロープを革紐で止めろ!!緩まないように金具で固定しておけ!!」 「アイ・・・・・・ッ!!」 甲版に出ると、そこはまだ多くの水夫が様々な作業を急ピッチで進めている最中だった。 指示を出すだけではなく、自らも手早く作業をする神田は腰元に灯りをぶら下げていたので簡単に見付けら れたのだが、とても近付いて良い雰囲気では無い。 波と風が少しはおさまったと言っても、やはり上に出てくれば自分に出来ることは無いと思い知らされ、ア レンは出てきた扉の傍で項垂れてしまう。 ―――刹那、ビュンッと聞き慣れない音が、すぐ側で聞こえた気がした。 「マストの紐が―――ッ」 誰かが、そう言った。 その時にはすでに、マストを留めていた筈のロープが風に呷られ、鞭を打つような速さで目の前に迫ってい た。 「―――ぇ?」 「アレンッ!!!!」 名を呼ばれて、目の前が真っ暗になって、不意に背中に衝撃が奔って。 見えたのは、夜目にも鮮やかな陽色の髪。 「ぐぁああああッ!!!!」 背中がじんわりと痛みを訴え始めたのは、耳元で引き裂かれるような悲鳴を聞いた瞬間だった。 「ラ、ビ・・・・・・?」 自分に凭れ掛かるように崩れ落ちてきたラビの体重と共にずるずると座り込んだアレンは、瞬時に何事か を理解した。 彼は、襲い来るロープから自分を庇ってくれた。 そして傷を負ったのだ。 「ラ、ラビ!!ラビ!!!!」 「ッ、ぐ、う・・・・・・っ」 出来るだけ動かさないように仰向けに寝かせようと背に触れた途端、ラビの口からまた辛そうな声が漏 れる。 アレンはハッと目を見開いて自分の手を凝視し、そこにべっとりと付いた液体に上がりそうになった悲 鳴を噛み殺した。 痛みを感じているのは、自分ではなくラビだ。 自らも鞭で皮膚を裂かれる痛みを知っているだけに、アレンは奥歯をガチガチと鳴らしながらラビの身 体を気遣った。 「ラビ、今トマさんを呼んできますから・・・・・・ッ」 「ア、レン・・・・・・怪我して、ねぇさ?」 「してません!!喋らないで下さい!!」 「そ、っか」 いつものように人好きのする笑みを浮かべたのを最後に、ラビは気を失った。 すぐに駆け付けてきた水夫がアレンの腕の中から慎重にラビを受け取り、トマの元へと運んでいくのを、 アレンはただ黙って見送るしか無かった。 水夫の持っていた灯りに一瞬照らされた自分の両手は真っ赤で、知らず涙が零れる。 (役に立たないどころか、怪我をさせてしまうなんて―――!!) 酷い後悔の中で、ふと横を誰かが通り過ぎる。 擦れ違う一瞬の間に聞こえた舌打ちは、紛れも無く、愛しい人のものだった。 back next
新章突入させてみました。 ここからはまた色々な出会いをさせながら、アレン君自身も 成長させていけたらと思っています。見え隠れしている敵の 存在もそろそろ・・・・・・(笑)のろのろ更新ですが、これから も暇潰し程度に海賊たちを見守って頂ければ幸いですvvv 2007/01/10 canon
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