An¬Alphard --- 前編




「暑……」

教団の廊下を足早に歩きながら、アレンは襟元で結んでいたリボンタイを乱暴に解いた。
普段はきちんと留めているシャツのボタンも三つ目まで外している所為か、擦れ違う団員の視線がいつに無くだらしない自分へと注がれている。 基本的に身形には気を配るアレン本人にとっても不本意な服装ではあったが、この暑さでは、そんなお上品なことも言っていられなかった。

「何で、こんな日に空調メンテナンスなんか……」

アレンは誰にとも無く恨み言を吐き、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。
今日は談話室や食堂などの共同使用の部屋を除き、全ての部屋に空調メンテナンスが行われる予定が一週間ほど前から決まっていた。
同時に行われる設備点検の都合上、出来るだけ団員が出払っている時を見て定めた日程だったらしいが、その当日がこの年で一番の暑さを記録 する日だと前もって分かっていれば今日という日にメンテナンスを行うことなど無かっただろう。
つい今し方まで用事で訪れていた室長室の主は自身のミスに何度も謝罪の言葉を口にしていたが、茹だるような暑さの中でデスクワークに勤しむ姿を目にして は、暑さに参っているアレンも「コムイさんの所為じゃありませんよ」と苦笑を浮かべるしかなかった。

「も、ほんと、暑い」

背や頬を伝う汗が気持ち悪く、建物の中に逃げ場を失くした温風が留まっているのも不快で堪らない。
室長室から今目指している談話室までは普段ならば数分も掛からずに着く距離だが、今のアレンには、それが果てしない道のりに思えた。
常人よりも遥かに身体能力が上のエクソシストでありながら、情けない。
擦れ違う団員は確かに暑そうではあるが自分ほどこの暑さに疲労しているようには見えず、アレンは乱れた呼吸を落ち着ける為に一度立ち止まった。
ぐったりと壁に背を預け、ずるずると座り込んで膝を抱える。
時折肌に感じる冷たい空気は、空調の効いている食堂か談話室から流れてきているものだろうか。
決して遠くは無い。同じ建物の中にあるその部屋には、自分を待っている恋人も居る。
要は気力だ。愚かしい行為とも思えるが、人は時に思い込みでとんでもない力を発揮することが可能な生き物だ。
アレンは自分が暑さで可笑しくなっていると感じていたが、今は何より談話室に向かい、愛しい恋人の腕の中で休みたかった。
す、と息を吸い込み、今居る場所から談話室まで立ち止まらずに行こう、と心に決める。
立ち上がる為に床に着いた手が湿っていて滑りそうになったが、何とか持ち堪えた。

(走れば30秒。なんて事無い)

仮にここでAKUMAが出現したとしたら?
自分は間違いなくイノセンスを発動し、応戦するだろう。勝つ自信も十二分に有る。
その姿が目を閉じて目蓋の裏側に思い浮かぶのだから、大丈夫だ。
ぐっと膝に力を込め、ゆっくりと目蓋を持ち上げる。心なしか背筋にひやりと冷たい物を感じたが、特に気には留めなかった。
談話室へ向かう為の一歩を踏み出し、重心を傾ける。三十秒後には恋人の待つ涼しい部屋の中だと思えば、多少の辛さには目を瞑ろうと思えた。だが次の瞬間、

「ッ、ぁ」

世界が歪み、頭の天辺から足の爪先までをスーッと冷たいものが這う。
つい今し方感じた感覚を、もっと不快にした感じだった。

「ぅ、」

気分の悪さも限界だった。
元々は人の多い談話室を嫌がって自室に居たところを、見兼ねた恋人が「俺も行く」とアレンを説得して連れ出してくれたのだ。
その途中でコムイに呼び止められなければ問題は無かったかも知れないが、自室に居るときからアレンは相当の我慢をしていた。 そこへ更に負荷を掛けたのだから、待ち受けた結果を限界と言わずになんと言うだろう。
スローモーションで近付いてくる床が見える。実際にはアレン自身が近付いているのだが、そんな事はもうどうでも良かった。
痛みを覚悟し、反射的に目を瞑る。傷を作るのは慣れていた。

----- ガクン。

落下が止まったことに、床へとぶつかる寸前で気を失ったアレンは気付かなかった。
ただ最後に見えたのは、自分の背後に立っていたのだろう、大きな人影だけ。










ざわざわと何時に無く騒がしい談話室の片隅で、若いエクソシスト数名は冷たい風の吹く場所を陣取るように腰を落ち着かせていた。
談話室のソファは基本的にテーブルを挟んで二つ。これがワンセットであり、最高で六人、無理矢理詰めれば八人は向かい合って座ることが出来るようになっている。
常ならば皆思い思いに過ごす筈の昼下がりで、談話室にこれ程多くの人間は集まらない。だが、今日は特別だった。
一週間前に決まった空調メンテナンスと今季一番の真夏日が重なってしまった結果、今日の談話室には一体どこに隠れていたのかと思うほどの団員で溢れ返っている。
ただでさえ人の声や物音を煩わしく感じる神田にとって、これほど癇に障る状況は無かった。

「うるせェ・・・・・・」
「仕方無いでしょ?皆暑いのは嫌だし、涼しいのはここと食堂くらいなんだから」
「その食堂も、似たような感じだろうけどなぁ」

冷えたジャスミン茶で咽喉を潤しながら言ったリナリーに続き、その隣に座るラビが呟く。
二人の向かい側に座っていた神田は誰にとも無く小さく舌打ちすると、テーブルに置いていたグラスを手に取り、残っていた液体を全て体内に流し込んだ。

「それに、俺らはまだマシさ」

悪びれた様子も無く言うラビは辺りを見回し、ふっと口端を吊り上げる。
自分たちの居る『ワンセット』には合計三人しか座っておらず、向かい側に居る神田などはその広々としたスペースを一人で使用している。
多くのソファには大小様々な背丈の団員たちが身を寄せ合って座っているというのに、随分優雅なものだと思わずにいられない。加えて一番涼しい位置に 堂々と腰を下ろしているのだから、これ以上の我儘はさすがに聞いてもらえないだろう。
とは言え、三人の内二人は『元帥』という立場の権限を使っているわけでも無い。ただ空いているスペースに「どうぞ」と言う気も無ければ、十分に広い神田の 両脇に志願して着席する勇者も居ないだけの話だった。

「それにしても、アレン君遅いわよね・・・・・・」

ぽつりと零れたリナリーの言葉に、神田の肩がぴくっと揺れる。
コムイに呼び止められたアレンと別れて早1時間。「後からすぐに行きます」とアレン本人も言っていたが、呼ばれた時の雰囲気から察するに大した用事でも無さそう だった。
長引くようならば無線ゴーレムで連絡を取ることも出来るのだが、生憎とアレンは専用の通信ゴーレムを所持していない。こんな時に使えそうなティムキャンピーも 主人の部屋に居た為に暑さでバテてしまい、今現在はリナリーの膝の上でぐったりと羽根を伸ばしている。
主人がまだ暑い場所に居るというのに大したゴーレムだ、と内心呆れ果てるが、このティムキャンピーを作ったのが『大した』存在なのであまり不思議は無い。
それに、初めは一緒について行こうとしたティムキャンピーを制したのは他ならぬアレンだった。
アレン自身も決して顔色は良くなかったが、いつもならピンと張っている翼をだらりと垂らして飛ぶゴーレムの姿を哀れに思ったのだろう。元はと言えば、この暑い 中で部屋に閉じ込めてしまっていた自分の所為だから、とリナリーへと預けて行った。
だが、アレンの体力を回復させる目的で談話室を訪れた神田にとって、アレンの居ないこの場に居ることは無意味に等しい。
暇潰しをするにしても普段からカードを持っているのはアレンなので、こうして同僚と雑談を交わす以外に持て余した時間を過ごす術は無かった。

「そんなに気になるなら、見に行って来れば良いさ? 俺たちはまだここに居るから」
「・・・・・・」

見た目には分からないが、明らかに落ち着かない神田の雰囲気を見兼ねたラビが口を開く。
尤もな事を言われて神田は眉を顰めるが、あのアレンのことだ。
こんな暑い中どうして迎えに来たりするのか、となんとも理不尽な文句を言うに違いない。
それが本気なのか照れ隠しなのかは状況に依るが、天邪鬼な性質のアレンは、嬉しいときに素直に嬉しいと言わない。神田が態度で語るのに対し、アレンは瞳で語る といったところだろうか。
怜悧な銀灰の双眸はただ美しいだけでは無く、まだ幼いながらに大の大人を圧倒する昏い輝きを潜めている。
神田は自分にしか向けられない絶対の信頼と愛情を持った眼差しも好きだが、まず向けられる事の無いあの氷のような視線も好きだった。
アレンが神田に対して昏い感情を働かせることが無いので真正面から見据えることは叶わないが、あれに似た視線なら、垣間見ることが出来るかもしれない。
それに実際、このまま待っているよりは迎えに行く方がこちらの気分も幾分落ち着く。少し不機嫌になられるくらい、可愛いものだろう。
溜息を一つ吐いた神田は立ち上がり、ラビとリナリーに何も告げる事無く歩き出す。その背を見送る二人は行ってらっしゃーいと声を揃えていたが、その声にも、 神田は何も返さなかった。

脇目も振らず出入り口のある方へと歩いていく神田の姿に、何人もの団員がちらちらと視線を送る。
思わず惹き付けられてしまう美貌を備えている神田には元からファンのような存在が居たが、それは彼が元帥になってから急増したように、ラビたちには思えた。
もちろん教団の華と謳われるリナリーには多くのファンが居るし、頼れるお兄さん的なラビの陰にも似たような者たちが居る。けれど神田の『ファン』は異質と 言うか、どこか熱狂的な信者を思わせる。
リナリーとラビは社交性があり、自分を慕ってくれる存在に笑顔を向けることを苦には思わないが、神田がそんなサービス精神を持ち合わせている筈も無い。
誰にも媚びず、笑顔も向けない。恋人以外は眼中に無い、という神田のその態度が信者を熱くさせているような気もするが、当の神田は殆ど無意識だ。 本当にアレン以外の者に興味が無いのだから仕方が無い。
逆に向けられている感情が悪意ならばそれに相応しい殺意くらいは返してやるのかも知れないが、元帥となった神田にわざわざ喧嘩を吹っ掛ける者も、最近は 見なくなった。
数年前までは探索部隊との衝突が絶えなかったのが嘘のようだ。

神田が席を立ったことで丸々一つのソファが空いたわけだが、そこへ注がれる視線は有りこそすれ、誰も座るどころか近寄ろうともしない。
ラビやリナリーに遠慮をしているわけでは無く、そこが未だ神田の席であることを承知していることと、彼が席を立った理由を皆察知していたからだ。
この場に居ない、もう一人のエクソシスト。
神田はそのエクソシストを探しにか、迎えに行ったに違いない。
あの空いたソファに座るのは、戻ってきた神田と、一緒に居るエクソシストだ、と。

「暗黙の了解って怖ェなぁ」
「良いじゃない。面倒が無くて」

クッと咽喉を鳴らしたラビに、容赦の無い声がざっくりと言い捨てる。
涼しい顔で隣に座るリナリーをじっとりと見詰めたラビは、「いつかこの本性をファンに教えてやりたいさ」と心の中で思った。
二人の声はお互いに聞こえれば良い程度の音量だったので、少し離れた隣のソファに座る者たちにも届かない。もし届いていたなら、彼らの中で勝手に作り上げ られているリナリーの天使像は音を立てて崩壊しただろう。
黙り込んだラビは「どうかした?」と問うリナリーに「何でも無いさ」と嘯き、まだ一口も飲んでいなかったジャスミン茶に手を伸ばそうとした。刹那-----、
ザワ、と。談話室にどよめきがはしった。
二人は一度顔を見合わせて腰を上げ、どよめきの中心となっている出入り口の方へと目を向ける。
そしてそこには確かに、どよめきを起こすだけの人物が居た。

神田が談話室から出るためにノブに手を掛けようとしたとき、扉は向こう側から自動的に開いた。
誰かが入ってくるのだろう、と予測は出来たが、半歩避ける気が無い神田はそのまま完全に開くのを待つ。けれど次の瞬間、扉の向こうに立っていた予想外の人物 に声を失くした。

「よぉ、久し振りだな」
「な、」

何でアンタがここに居るんだ、と続く筈だった言葉は、その人物が両腕に抱えていた存在を見て途切れた。

「!?」
「ここに来る途中でくたばってたんで連れて来てやったんだよ。暑さでやられるとは、情けない馬鹿弟子だ」

言うなり、ぐったりと気を失っているアレンを神田に押し付けるように渡したクロス・マリアン大元帥はずかずかと談話室の中へ入っていく。
教団嫌いで有名なクロスが何故ここに居るのかは謎だったが、神田はその疑問を二の次にした。
顔色の悪いアレンを抱いてソファへ戻ると、心配そうな顔をしたラビとリナリーがスペースを詰めて神田とアレンの場所を作る。
今まで神田が座っていた向かい側のソファには、当然のようにクロスが鎮座していた。

「妹、何かくれ」
「あ、はい」

妹、と指名されたリナリーは慌てて席を立ち、クロスの為の飲み物を取りに談話室を出て行く。その後姿に「ついでにこの馬鹿の分もな」と付け足すと、 リナリーは振り返って柔らかに微笑み、軽く了解の会釈をしてみせた。

「兄貴と違って素直な女だな」
「それより、何しに来たんだ、アンタ」

妹のリナリーとその実兄であるコムイとを比べて声を漏らしたクロスに、アレンを見詰めていた神田が不意に顔を上げる。
大元帥という立場上は教団に居て何の問題も無いのだが、教団を嫌って寄り付かない放蕩エクソシストのクロスが自らここへ来るなど、何か企んでいる としか思えない。
ラビもアレンへと落としていた視線を上げ、興味の惹かれる話題へと意識を切り替える。それは周囲も同じなのか、クロスが談話室へと入って来る前と 比べて、室内は随分静かだった。
聞き耳を立てられていることを特別気にもしていないクロスはふん、と鼻を鳴らし、睨むように見詰めてくる神田からついと視線を逸らす。すると丁度 食堂から飲み物を取ってきたリナリーが戻ってきたところで、その手に持たれている飲み物を見て気を良くしたように口許を歪めた。

「お待たせしました」
「気遣いご苦労。将来、良い女になること間違い無しだな」
「ありがとうございます」

真昼間からビールジョッキをトレイに乗せて持って来たリナリーに周囲は目を見開いたが、それはクロスという人間を理解してのこと。
何と無く褒められる点が可笑しいが、褒められた本人は楽しそうに笑い、素直にお礼を言った。

「それで?」
「あん?」
「何か用事があって来たんだろ?」
「・・・・・・あぁ」

忘れていた、とでもい言いたげに生返事をし、とりあえず一杯目のビールを飲み干す。
ジョッキが空になるとリナリーは数本持ってきていた瓶の栓を抜き、まるでそれが当然であるような仕草でお酌の姿勢を取った。

「アレン君に用事があったんですか?」

クロスの隣に着席したリナリーが探る風でも無く訊くと、鋭いなと再度お褒めの言葉が飛ぶ。

「確かにその馬鹿弟子に用があって来たんだが、馬鹿故にそんな状態だ。ある事に了解を得たかったんだが・・・・・・この際お前でも良い」

お前、と言われながら視線が合っているのだから自分のことだろう。
だが一体何の事なのか話の核心が見えない神田が眉を顰めていると、クロスは今までに見たことが無いほど爽やかな笑顔を浮かべて、

「裸になって絵のモデルをやれ」

とんでも無いことをのたまった。
ブハッ、とそこかしこで液体を吐き出す音を耳にしながら、神田は眉間に数本の皺を刻み込んでクロスを睨みつける。
何を馬鹿な事を言っているんだ、と言うよりも先に、こんな状態で無ければそれをアレンに言っていたのかと思うと余計に腹が立った。
もちろんアレンが起きていたところでそれを承諾するとも思えないしさせるつもりも無いが、いきなり現れて「裸になって絵のモデルをしろ」 とはどういうつもりなのか。
クロスに絵を描く趣味があるなんて聞いた事は無いし、絵を見て愛でるタイプでも無いだろう。

言いたいことは言った、とばかりに再びビールをあおるクロスに注目が集まるが、本人は特に気に留めず、普段通り自分のしたいように振舞っている。
意味不明な命令を受けた神田と唖然とする同僚二人は徐々に落ち着きを取り戻し始めていたが、好奇心旺盛なギャラリーたち にとって、これ程の話題は無かった。
ただでさえ久々に目にした大元帥の口から、美貌のエクソシストが「裸になれ」と言われているのだ。
これは是非生で描いているところを拝みたいと思う者も居れば、単なる興味で絵だけでも見てみたいと思う者も居る。神田の信者たちに限っては、 もう冷静な思考を失っていた。

(大元帥が神田さんのことを?)
(まさか、神田元帥は大元帥の弟子の恋人だぞ?)
(クロス大元帥は女好きって聞いていたが・・・・・・)

実に不本意な会話が聞こえ、神田は周囲を眼光鋭く睨みつける。
そのだけでヒッと声を上げた数人は、ばたばたと談話室を飛び出して行った。

「別にお前じゃなくても、その馬鹿が目を覚ませばそっちにやらせる。心配するな」
「誰がさせるか」

冗談じゃない、と護るように腕の中のアレンを抱え直し、柔らかな雪色の髪に指を滑らせる。
目に見える容で独占欲を曝け出すことはアレンの方が多いが、神田だって独占欲が無いわけではない。
アレンを絵のモデルに使いたいと言うことは、例えそれが裸体であろうと無かろうと、何かの感情を持ってアレンを見詰めるということだ。それが純粋な 美意識や創作意欲といったものでも、神田には関係が無い。
この身がアレンのものであるように、アレンという人間は全て自分のものだ。この髪の一筋さえも。
慈しむように触れる指先が、言外に「特別」を匂わせる。
どんな努力をしても、誰も手に入れられない。そう思われていた神田自身とその特別を与えられたアレンを、今も多くの人間が羨んでいた。

「----- ぅ、ん」

瞳を縁取っている長い睫毛が僅かに震え、産まれたての雛が初めて世界を見渡すように、ゆっくりと銀灰が露になる。
死んだように気を失っていたアレンの反応にいち早く気付いた神田は、リナリーからレモネードの入ったグラスを受け取った。

「起きたか?」
「ぁ、・・・・・・ん、だ?」
「ほら、咽喉渇いてんだろ」

気を失っている間に少し身体は休めたが、喋るにはまだ辛そうだ。
ラビやリナリーも心配顔で見詰める中、アレンは渡されたレモネードを何口か飲む。初めは神田がグラスを支えていたが、途中からは自分でしっかりと 持てたので、そう深刻な状態でも無さそうだった。

「は、・・・・・・あれ?何してるんですか、師匠」

空になったグラスをテーブルへと置き、そのままふと顔を上げると、久し振りに見る師の姿に軽く目を瞠る。
横抱きにされていたアレンは体勢を変え、神田の胸へと背を預けるように座ってクロスと向き合った。

「廊下でぶっ倒れたどっかの馬鹿弟子を連れて来てやったんだ。感謝しろ」
「・・・・・・それは、どうもご迷惑をお掛けしました」

そういえば、気を失う前に大きな影を見た気がする。あれは師匠だったのか。
一人納得したアレンはとりあえず礼を言い、軽く頭を下げる。
そして表情をがらりと変えると、訝しげな視線を師へと送った。

「それで、何しに来たんですか?」

どいつもこいつも同じ事を。
クロスは額に青筋を浮かべそうになったが、なけなしの理性でどうにか堪えてみせる。
以前ならばトンカチの一つや二つ取り出していたかも知れないが、いくら弱っていると言ってもアレンの能力は元帥に匹敵する。同じ手に二度もやられる ほど間抜けでも無ければ、周りの者が黙って見ている筈も無いだろう。
それにせっかく目当ての眠り姫が目を覚ましたのだから、今本題に入らなくていつ入るのかとも思う。
神田たちにも、事の詳細は話していなかった。

「少し前に同僚と賭けをした。で、俺は珍しく負けた。珍しく、だ」
「・・・・・・それは珍しいですね。それで?」
「その時珍しく手持ちが無かったから、別のモノを賭けた」
「・・・・・・それで?」

続きを促すアレンの大きな瞳が、段々と細くなる。
アレンの記憶にある限りクロスは賭けに負けることは珍しく無かったし、金を持っていないことは、今もアレン名義にされている借金の額が物言わず主張 している。
神田にも手伝ってもらっているおかげで今では大分減ったが、まだアレンの寿命で返しきれるかどうか、といったところだ。

「賭けたのは金や宝石でも無いが、俺の所有物の中で多分一番価値のあるモノだ。見目は良いし、上辺を繕えば誰からも好かれるだろうな。実際の性格は 難有りだが、まぁ可愛げが無い事も無い。相手はそれを『ヌードモデルのデッサンがしたい』と言ってきた」

何を言っているんだこの人は。
意味不明な事を言うクロスに呆れの眼差しを向けていると、不意に背後から不穏な気を感じた。
アレンは驚きながら自分を抱き締めている神田を見上げ、ことりと首を傾げる。
自分たちの目の前に居る大元帥へと殺気を放っているのは、間違い無く神田だ。けれど何故こんなに怒っているのかが分からない。

「それで、だ。アレン。お前ちょっと裸になってデッサン取られて来い」
「・・・・・・は?」
「やらせねェって言っただろうが!!大体こいつがいつアンタの所有物になった!?」
「拾ったもん勝ちだ」

今までの話は自分のことを言っていたのかと理解すると同時に、神田の機嫌の悪さにも納得がいった。
神田はクロスが教団を訪れた理由を知っていたので、あまりに勝手な話の内容を改めて聞かされ、苛ついていたのだろう。その上、自分がクロスから 『俺の所有物』扱いされたのだ。殺意が芽生えても仕方ない。
アレンだって、神田が自分以外の何者かから所有物扱いされれば怒るに決まっている。殺意も湧くだろうし、それを抑えることが出来るかと訊かれれば、 是とは言い切れなかった。

「師匠、嫌ですよ、僕。そんなの師匠がやれば良いでしょう?」
「あいつは美少年が描きたいんだとよ。俺みたいな美丈夫描いても仕方無ェだろ」

自分で美丈夫と言う辺り重度のナルシストに思えるが、事実、クロス・マリアンはかなりの男前だ。
だからこそ掃いて捨てるほどの無利子宿、もとい美女たちも、彼に熱を上げていたのだろう。
決して誰のものにもならない、という点は神田と似ている気もするが、その質は全く違う。クロスは美女ならば来る者拒まずだが、神田は美女だろうが 美男だろうが来る者は全て拒んでいた。
それも、アレンと出会う前の話ではあるが・・・・・・。

「とにかく嫌です。自分の失態は自分で片付けて下さい」
「言うようになったな、馬鹿弟子。俺は別にそっちの美青年でも良いんだ-----」
「殴りますよ」

言葉を言い終わる前に冷ややかに一蹴され、クロスは思い切り不機嫌な顔をした。
自分を美丈夫だと言い放つクロスから美少年と認識され、尚且つご指名を受けたのは名誉な事かも知れない。だが指名内容に問題がある。
アレン自身に何の落ち度も無いというのに、裸のデッサンを受ける道理は無い。それを断ったからといって、神田を代わりになどもっての外だった。

事の成り行きを見守っていたラビとリナリーは師匠と弟子とその恋人との遣り取りを黙って見ていたが、背後がざわついた事から、今度は何だ、とそちらへ 目を向ける。
出入り口の扉付近が一番騒がしいので、また誰か思わぬ来訪者が現れたのかも知れない。だがクロスの後ではそう驚くことも無いだろう・・・・・・という 考えを、二人は一瞬後に改めた。

(そういえば、クロス大元帥、「同僚と賭けをした」って言ってたわよね?)
(んで、同僚の望みは『美少年の裸体デッサン』だったさ)

こそこそと二人が話している間にも、その人物は周りの団員から「お久し振りです」という友好的な言葉を浴びながら近付いてくる。モーセの十戒かと 思わせたクロスの時とは大違いだ。
言い争っている師弟たちは、まだその存在に気付かない。
仕方ない、とラビは溜息を一つ吐いて神田の肩を叩き、「何だ」と睨まれたところで後方を指差した。

神田は指差された方向を苛立たしげに振り返り、そこに居た人物を見て一瞬思考が停止する。
クロスと賭けをした同僚、デッサンの指名。パズルのピースが全て埋まったように、その何かもに合点がいった。

「久しぶりーん☆神田君、元気してた?」
「ティエドール大元帥・・・・・・」

項垂れた弟子の影からひょこりと顔を覗かせたアレンにも同様の挨拶をし、ティエドールは背負っていた荷物をどっこいせとテーブルの上に置いた。
色々なことを瞬時に理解した神田は長い溜息を吐き、アレンも何と無くではあるが状況を把握する。
要するにクロスはティエドールと賭けをして負け、勝ったティエドールはアレンをデッサンするためにここへやって来たということだろう。

「それじゃあアレン君、悪いんだが・・・・・・」
「師匠、その件ですが」
「ん?汗を掻いているのかい?だったら着替えておいで。それから、とりあえず私の部屋に行こうか。ここは騒がしいだろうからね」

要求に対する異論を神田が唱えようとしたとき、思いも寄らない言葉がティエドールの口から出たので、その場に居た全員は皆一様に目を丸くした。

「え?・・・・・・それって」
「どういうことさ?」

この場に居る者は皆、ティエドールが『美少年の裸のデッサン』を描きたがっているという認識をしていた。
だがティエドール本人の口から、「裸になってくれ」という肝心の言葉は無い。寧ろ、服は着ていて何の問題も無さそうだ。
戸惑いを隠せない周囲の反応に気付いたティエドールは顔を上げると、「あぁ」と何かを理解したように呟き、傲岸不遜な態度を崩さないクロスに呆れた 溜息を吐いた。

「クロス、あまり弟子たちを苛めるものじゃないよ」
「揶揄かっただけだ。苛めたわけじゃない」

しれっと言ったクロスは揶揄のネタをバラされてしまい、つまらなそうにジョッキを傾けた。
しばらく沈黙していた弟子たちは口許を引き攣らせ、大人気ない大元帥の冗談に惑わされたのだと知って脱力する。
よくよく考えて見れば、長い付き合いなのだ。
美少年、と言ってアレンを思い浮かべるだろうクロスに、叶う筈も無い裸のデッサンなどティエドールが望むわけが無い。何故なら、アレンにそんな事を させようものならば、可愛がっている弟子から死ぬまで侮蔑と拒絶の眼差しを送られ続ける事になるのだから。

「ところで、デッサンの話は受けてもらえるのかな?」

ハッと我に返った弟子たちは顔を見合わせ、どうしたものかと考え込む。
デッサンを取りたい、と言う相手が師なだけに、神田はつい先程まで頑なに拒んでいた気持ちが薄れていた。
ティエドールがアレンに邪な感情を働くとは思えず、裸になる必要も無い。色を足すつもりも無いなら時間も掛からないだろう。
神田はティエドールの要求に応える権利をアレン一人に委ね、言葉を待つ。
漸く事態の収拾がつきそうになり、張り詰めていた談話室の空気が過ごし易いものへと変わろうとしていた。

「・・・・・・一枚だけなら、お手伝いさせて頂きます」
「おぉ、本当かい?嬉しいなぁ」

悩んだ末のアレンの返答に、ティエドールは満足気な笑みを浮かべた。











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07/08/11




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