海の上に浮かぶ城 15




 忙しなく走り回る水夫を目で追いながら、アレンは一つのキャビンの前に立っていた。
 後悔や悔しさが頭の中で渦を巻いて、いっそこの場にずるずると蹲りたくなる。けれど何度思っても実行しないのは、この通路が狭くて、人一人蹲ると通行の邪魔になるという理由だけじゃない。ここで蹲ることは、自分を甘やかすことだと感じていたからだ。
 ――甲板で、ラビに怪我をさせてしまった。
 不慮の事故であったとは言え、自分があそこで出て行かなければ、彼が怪我をすることはなかった。
 ぎゅっと目を閉じて、雨に濡れた肩を両手で抱く。温かくはならないけれど、寒さからじゃない震えは、少しだけ治まった。
 カチャ、と目の前の扉が開き、部屋からこぼれてきた光に顔を上げる。
 出てきた二人の男はアレンを見ると、それぞれに違う顔をした。

「アレン殿、ずっとここに居たんですか? 入ってくればよろしかったのに……」
「いえ、僕は……トマさん、ラビは……?」

 寒さ以外の想いが、唇を震わせる。
 暗がりで見えにくかったけれど、ラビの背を裂いた傷は決して浅いものではなかった。べっとりと手に付いた血の感触が、今でも忘れられない。同じ液体なのに、雨とは違う。どこか温かさを持ったそれ。
 目蓋を閉じれば、眼裏には苦痛に歪んだラビの表情が甦る。そしてそれ以上に鮮明に思い出すのは、驚愕と恐怖に震えて何もできない自分を、いつもの笑顔で心配してくれる、優しくて苦しそうな声だった。

「命を落とすほどの傷じゃない。熱は出るだろうけどな……トマ、嵐が収まり次第針路を変える。他の奴等に伝えろ」
「アイ・サー」
「針路は北西。フランスだ。あそこなら知り合いがいる」
「コムイ殿、ですね」
「あぁ」

 トマへ向けたアレンの問いには、一緒に部屋から出てきた神田が答えた。
 神田はアレンを一瞥すること無く、トマと船の針路について話を進めていく。
 理解できない会話に、アレンの心はじくじくと痛む。自分はここで、何の役にも立たない人間だと思い知らされるようで、堪らなかった。
 役に立ちたいと願う心は逸るばかりで、実際には何ひとつ満足にこなせることなどない。
 今だって、出来ることと言えば、二人の会話に無駄な口を挟まないことくらいだ。『コムイ』という人が誰なのか。その人のところに行けばラビは治るのか。フランスまで、どのくらいかかるのか。訊きたいことは山ほどあるのに、どれも言葉には出来なかった。

「――では、そう伝えてきます。……神田殿はアレン殿を」
「分かってる」
「え?」

 不意に名前を挙げられ、驚いて声があがる。
 首を傾げると心配そうな眼差しのトマと目が合い、アレンはきょとんと目を丸くした。
 トマは「お願いします」と念を押すように神田に頭を下げ、足早に甲板へと上がって行く。
 意味が分からないまま、残されたアレンはトマが去っていった方向と神田を交互に見詰めた。

「お願いって何が……?」

 状況が把握出来ずに視線を彷徨わせていると、突然痛いほどの力で手首を掴まれ、アレンは半ば引き摺られるように歩き始めた。
 掴まれている手から腕へ、腕から横顔へ。恐る恐る目線を上げていくと、不機嫌を通り越したような無表情が目に留って心が竦んでしまう。
 この船にとっても、神田にとっても、大切な人に怪我を負わせたのだ。
 怒られること、罰を受ける覚悟は、たった今出来た。
 身勝手な行動が招いた罰は、何の役にも立たなアレンでも受けられる。それだけでは贖罪にならないと言われれば、最悪、この黒耀から降りる考えが頭を過ぎった。
 突然どこかの港町に放り出される自分なんて想像出来ないけれど、あの娼館でも、幼いながらに歌唄いとして置いてもらえたくらいだ。きっとどこに置き去りにされても、なんとかやっていけるだろう。
 じわりと滲んだ涙を、自由な手の甲で拭う。
 終わりという一つの可能性を目の前にした心が、こんなにも頼りないものだとは思わなかった。
 だが、自室に入るなり衣装箱を漁り始めた神田に、後ろで身を竦めているアレンを糾弾するような素振りはまったくない。
 予測していなかった行動に呆けていると、衣装箱から乾いた布を取り出した神田は、無言のままそれをアレンの頭に被せた。

「わ――っ」

 視界が真っ暗になり、アレンは光を求めてじたばたと蛾のように足掻く。足元からの光を頼りにどうにか暗闇から抜け出そうとするものの、揺れの収まらない船に平衡感覚を奪われ、ガンッとどこかに足をぶつけて床に座り込んだ。

「チッ……じっとしてろ、馬鹿が」

 思いの外痛かった足を押さえてう〜っと唸っていると、頭上から声と共に落ちてきた舌打ちに、それまで慌しかった動きがぴたりと止まる。
 ラビに怪我をさせてしまったときに聞こえた、煩わしげな、忌々しそうな音。
 傷や血の感触が手から消えていないように、あの舌打ちもまた、アレンの耳にはずっと残っていた。
 ――嫌われたのだろうか?
 ――本当に、黒耀を降りることになるんだろうか?
 臆病な心が、現実味のある答えの糸を引く。
 この船の上で、アレンは荷物でしかない。何の手伝いも出来ないくせに、水夫と同じ食事を摂り、水夫たちよりも質の良いベッドで眠る。
 それはお世辞にも「必要」とは言い難い、ただ迷惑なだけの荷物だ。

(何様だろう……僕は)

 再び滲んできた涙を、零れ落ちないように必死で堪える。
 何の役目も果たしていないアレンは元々、この船に乗っている資格もなかったのだ。

「ったく、ただでさえ白いくせに、こんなに青白くなりやがって」
「青白い?」

 そっと労わるように頬に触れられ、その温かさに初めて、アレンは自分の身体が冷え切っていることに気付いた。
 全く別のことに思考が囚われていたせいで、普通なら感じている筈の感覚を蔑ろにしていたらしい。
 ひとたび自覚してしまうと、それまで眠っていた『寒い』という感覚が目を覚まし、全身を刺すような寒気が襲う。
 ようやく普通の感覚を取り戻したアレンは傍目にも分かるほど震えだして、神田は小さく溜息をこぼした。

「雨に濡れたままあんな冷えた場所に突っ立ってれば、誰だって青褪める。ガキでも分かることだろうが。馬鹿」

 床で縮こまっている身体を抱き上げてベッドに下ろし、濡れた服を手早く脱がせる。肌に直接触れた空気に身を竦ませたアレンをシーツで包むと、神田は乱暴な手付きで髪を拭いてやった。

「熱でも出たらどうする気だ。ラビに続いてお前まで倒れたら、一体誰があいつの世話すんだよ」

 ぐしゃぐしゃと髪を乱されながら、アレンは気落ちした声で「すみません」と呟いた。
 役に立たない上にラビに怪我をさせ、そのことで悩みすぎて、今度は自身の体調管理まで怠るような失態に、目の前が段々と暗くなっていくような気がした。
 叱られた仔犬のように項垂れていると、頭にもう一枚乾いた布を被せられる。何だろうと思って上目遣いで神田を見ると、「身体は自分で拭け」と短く言われ、アレンはもぞもぞとシーツから腕を出して布を手にした。
 ――そのとき、ふと、今まで当たり前のように労わられていた事実に違和感を覚えた。
 ラビが怪我をした為に甲板を降りてきた神田は、本来なら今すぐにでも戻って、まだ懸命に働いている水夫たちに指示しなければいけないことが山ほどある筈だ。
 神田が不在のときに船を仕切るのは航海長のラビの役目だが、その航海長がいない今、船長である神田がこんなところに居る場合ではない――。
 替えの服を受け取りながら、アレンは唇を噛み締める。
 無意識のうちに甘えて事の重大さに頭が回らなかったことが、情けなくて腹立たしくて堪らなかった。

「神田、僕はもう大丈夫ですから、早く上に戻って下さい」
「あ? 何でだよ。ここに居られたくない理由でもあるのか?」
「……はい?」

 思いがけない問いに驚いていると、不機嫌を露にした漆黒が静かに自分を見下ろしているのに、アレンは小さく息を呑んだ。

「な、何もないですよ。だって、船長の神田がこんな大変なときに僕に構ってる場合じゃ――」
「上にはトマが行った。さっきアイツも『お願いします』って言ってただろうが。あれはお前のことだ」
「あ……だから」

 ――だから、あんなに心配そうな顔をしていたんだ。
 扉を開けた瞬間から、トマはアレンが『ずっと』そこに居たことに気付いていた。彼は船医だから、青褪めたアレンの表情を見ただけでそれが分かったのだろう。

「水夫たちも、トマの言葉になら文句は言わねぇ。あいつは先代のときに水夫長やってたからな。人望もある」
「信頼、してるんですね」
「信頼出来ない人間を船に乗せると思うか?」
「……そうですよね」

 黒耀の水夫は皆、普段は陽気な若者に見えるけれど、きっと何かに秀でていて、その才能を買われた者ばかりなのだろう。
 船乗りを目指すなら、大自然の上で生きる覚悟はもちろん、度胸や体力も必要になる。望めば誰もが船に乗れるわけではなく、その門は、実はそう広くない。
 足の怪我が原因で船を降りたトマが再び黒耀に戻ってこられたのも、医学を勉強し、その才がこの船に必要だと認められたからだ。

(僕なんて……ただ神田に気に入ってもらえただけで、何も出来ないのに……)

 卑屈になんてなりたくないのに、アレンはどうしても、黒耀にとっての自分の存在に価値が見出せなかった。

「甲板にお前が出て来たのは、自分が大丈夫だと言ったからだ、とトマが言っていた。『アレン殿を叱らないで下さい』ってな。……お前がいつまでもそんな顔してたら、俺が叱ったと思われるだろうが」

 黙り込んだせいで要らない心配を掛けたらしく、大きな掌で髪をくしゃくしゃと撫でられる。
 けれど、トマのせいだとは欠片ほども思っていなかったアレンは曖昧に微笑み、ゆるく首を振って言葉を返した。

「大人しくしてろって神田から言われたのに、キャビンを出た僕がいけないんです。トマさんは悪くありません。それに、僕さえ甲板に行かなかったら、ラビは――」
「起こったことはどうしようもねぇ。……アイツは生きてるんだ。それだけで十分だろ」

 この話はこれで終わりだ、というように頭を軽く叩かれ、アレンはそれ以上何も言えなくなった。

「順調に行けば三日後にはフランスだ。上で話してくるから、お前はさっさと着替えて怪我人の看病でもしてろ。傷の手当てはトマに任せて、身の回りの世話だけしてやれ。トマが治療しているときは、外に出てろ」

 分かったな? と訊きながら返答を待たずにキャビンを出て行く神田を見送り、アレンは手に持っていたままだった服に視線を落とした。
 身の回りの世話と言っても、おそらく手伝えるのは着替えや食事の用意くらいだろう。だがそれでも、――それだけでも、この手が必要とされるなら、何だってやるつもりだった。
 神田に言い付けられてしまったのでトマの役には立てそうにないが、少なくとも、ラビのためには今の自分にも出来ることがある。
 よし、と意気込んだアレンは服に袖を通し、ラビが居るトマの部屋へと向かった。
 本来ならラビ自身の部屋に行くところだが、怪我を負ったラビが水夫に担がれて彼自身の部屋に運び込まれようとしていたとき、『怪我の経過を見るためにも、処置のしやすい場所の方が良い』とトマが提案し、もっともな意見にその場にいた誰もが頷いた。
 だが、そのもっともらしい言葉の裏に隠された本当の理由が、アレンにはなんとなく分かった気がした。
 三分の二以上が本で埋まっているラビの部屋は、正直、誰が見ても人が生活できる環境ではない。もしもあんな場所に怪我人を寝かせていれば、塞がりかけた傷口も本の雪崩に巻き込まれて簡単に開いてしまう。
 トマの提案は、きっとそんな危惧も込められていたに違いない、とアレンは思わず笑みをこぼした。
 部屋の前で立ち止まり、扉を数回ノックする。主人はまだ甲板から下りて来ていないらしく、中からの応答はなかった。

「失礼します」

 一言断って中へ入ると、アルコールの臭いに混じって、ふわりと甘い香りが鼻をついた。きょろきょろと広くないキャビンを見回すと、扉の内側に乾燥したラベンダーの花が飾られているのを見つけ、香りの正体を知る。水の都に立ち寄る前にアレンがここへ来たときには無かったので、きっとあの祭りの間に買っていた物だろう。

「良いなぁ……気分が和らぐ。神田のキャビンにも飾ったら怒るかな……」

 怒りっぽい神田も、こんな癒しがあれば少しは穏やかになるかも知れない。
 そんなささやかな期待を抱いてみたものの、神田は甘い食べ物が嫌いだったこと思い出し、本人に提案するまでもなくアレンの中で却下された。

「ッ――う、」
「あっ、ラビ……目が覚めた?」

 船長や航海長の部屋にある物ほど質は良くないが、板の上に柔らかな布を重ねたベッドでうつ伏せていたラビが、小さく身動ぎをした。
 近付いて視線を合わせるように膝を折ると、薄っすらと開かれた左目がアレンを映す。

「アレ、ン……?」
「うん……。ラビ、覚えてますか? 僕のこと庇ってくれて、怪我したんです」
「……あぁ、そっか。だから……」

 その後に続く言葉が何だったのか、アレンは自分の中でいくつか考えてみたけれど、結局どちらも続きを口にはしなかった。

「あの、助けてくれて、ありがとうございました。それと……怪我させてしまって、すみません」
「ばーか、俺の手の届くとこ居たのに、もし間に合ってなかったら――ッ」
「ラビ!? ごめんなさい、無理に喋らせて……僕、ずっとここに居ますから。何か欲しい物があったら言って下さいね? トマさんは上で神田たちと話してるから、もう少し経ったら来ると思います。フランスまでは順調に行けば三日だって神田が言っていたから、それまで破傷風にならないように気をつけなくちゃ――」
「アレン」

 言葉を遮られ、アレンはえ? と首を傾げた。
 何か欲しい物でもあるのだろうか、と顔を近付けると、ラビは眼帯に隠れていない方の目を大きく見開き、唇をわなわなと震わせていた。

「今、フランスって言ったさ?」
「? はい。神田とトマさんが、『進路は北西。フランスに行く』って……」
「ッ、冗談じゃねぇ!!」
「な!? 何してるんですか!! 誰かっ、誰か来て下さい!!」

 無理に起き上がろうとした身体を咄嗟に押さえ込み、アレンは悲鳴に近い声で応援を呼ぶ。だがハッと我に返り、怪我に障るといけないんじゃ……と手の力を緩めた瞬間、ラビはどこにそんな力が残っていたのか、自分が寝ていたベッドにアレンを押さえつけた。

「行かねぇ!! フランスだけは絶対に行かねぇからな!!」
「きっ、傷が開きます!! って言うか塞がってもいないですよ!! ラビ!! 駄目ですってばぁ!!」

 取り乱しているラビはアレンの両腕を押さえて必死の形相でフランス行きを拒否するが、進路に関して何の決定権もないアレンはただその剣幕に狼狽するしかない。
 傷の心配をする涙の訴えも届かず途方に暮れていると、騒ぎを聞きつけたのか、扉の外から足早に靴音が近付いて来た。

「おい、モヤシ!! 怪我人相手に騒ぐんじゃ……」
「か、神田ぁっ、ラ、ラビが、ラビが暴れて――ッ」

 勢いよく扉を開け放って入ってきた男も酷い剣幕ではあったが、今のアレンにとっては救世主だった。
 期待を込めた瞳で見詰められた神田は瞬時には意味が分からず身を引いたが、目の前の状況を冷静に眺め、次いでひくりと頬を引き攣らせた。

「ッて、めぇ……怪我人が何人のモン襲ってんだ、あぁ!?」
「はぁ!? ち、違いますよ神田!! ラビはただフランスに行きたくないって……」
「今日こそあの大量の本と一緒に魚の餌にしてやる!!」
「だから違うんですー!! ちょっ、ちょっと!! 怪我人相手に乱暴しないで下さいよ!!」
「うるせぇ!! 大体お前もお前だ!! 看病しに来て何襲われてんだよ!!」
「お、襲われてたわけじゃないですよ!! 勘違いしないで下さい!!」



 言い争う声になんだなんだと野次馬が集まり始めた頃、甲板で船長の帰りを待っていたトマは、小降りになった雨の下で誰にも聞こえない小さな溜息を吐いていた。

「あの、トマさん……下から船長の怒鳴り声が聞こえるんですけど……」
「えぇ……火に油を注いだと言うか、ミイラ取りがミイラになったと言うか……どちらにしても、」
 
 ラビ殿が心配ですね。

 冷たい雨粒に混じった冷や汗が齎した予感は、その数十秒後、言い争う二人の足元で気を失っている航海長へと繋がっていた。















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1年と1ヶ月ぶりの更新、です。お待たせしまして申し訳ありません。
どんぶらこ〜どんぶらこ〜と動き出した海賊たちを、これからもよろしくお願い致します(土下座)

08/02/09 canon





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