『-----ティエドール部隊所属、神田ユウ』

不思議と哀しみが湧かなかったのは、
(だいじょうぶ)
見慣れたその横顔が、
(しんぱいしないで)
少しだけ強張っていたからかも知れない。

(あなたが居なくなる現実と引き換えに、僕はこの気持ちを手に入れたから)




A hometown of tears 06




 閑散としたパーティー会場に、時折しゃくり上げるような声が響いた。
 床に散らばったゴミを拾いながら、アレンはふと顔を上げて出入り口に近い場所にあるテーブルの一つを見詰める。そこにはテーブルに突っ伏して肩を震わせる少女が一人、悔しさと哀しみに声を押し殺して泣いていた。
 ゴミを指定の場所に捨て、数時間前まで自分も座っていた椅子に腰掛ける。カタン、と鳴った音に、向かい側で泣いていた黎花の肩が一瞬だけ跳ねた。
「黎花……泣かないで?」
「っ、ごめ、なさい……ごめんなさいッ、アレン。私が居なかったら、神田だって……」
「誰の所為でもないよ。それに黎花の護衛に関係なく、神田は明日で居なくなってたと思うよ」
 目を真っ赤にさせて謝る黎花を刺激しないように、出来るだけ柔らかく話しかける。
 神田の移籍は、教団の決定だ。
 移籍の理由はアジア支部に在籍していたエクソシストの殉職なので、強いて言えば「AKUMAの所為」ではある。けれどそのAKUMAを作ったのは遺された者の嘆きで、元凶はそこにつけ込んだ千年伯爵だ。
 いくら『黎花の護衛で』という名目があると言っても、それは黎花が悪いわけじゃない。
 エクソシストが千年伯爵にとって邪魔ならば、彼らをサポートする優秀な科学班の存在も、伯爵にとっては厄介だ。特に黎花は若干十二歳でその場所へ駆け上がったのだから、このことが敵の耳に入れば黎花は間違いなく狙われてしまう。-----詳しくは何も知らないが、神田の護衛としての役割はきっとそういう理由だろう。
「でも、なんで神田なの? ここにはリナリーやラビだって居るじゃない!!」
 哀しみで引き裂かれそうな声が、耳の奥まで響く。
 この涙が自分の為に流されていると思うと、アレンの胸に少しだけ罪悪感が過ぎった。きっと黎花が想うより、アレン自身は今回のことにそれほどショックを受けていなかったからだ。
 コムイの言葉を聞いたとき、確かに心臓が跳ねた。けれど胸に湧き上がった想いは父を失ったときの哀しみとは似て非なるもので、瞬間的にその気持ちの名前に気付いたとき、目に映る世界の色が変わった。
 両目に映る世界は極彩色で、こんなにも色鮮やかだったろうかと思うほどに輝いて見えた。見慣れた筈の何もかもがきらきらと光って、どれだけ時間が経っても少しも色褪せない。
 誰もが当たり前のように持っている想いを手にしただけで、世界がこんなにも煌めいて見えるなんて思わなかった。
 それが例え大切な人を失うことで手に入れたものだとしても、このまま気付かずに生きていた未来を思うと、この別れは自分にとって無意味ではないと胸を張って言えるほど大切なことのように思えた。
「大丈夫だよ、黎花」
 あの強張った横顔にも言いたかった言葉は、彼の前でなければすんなりと口に出来た。
 きょとん、と目を丸くした黎花ににっこりと笑いかけ、アレンは目蓋を閉じる。
 コムイが二つ目の報告をした直後、呆然としながらも見上げた神田の表情は、今までに見たことがない類のものだった。
 どんなことがあっても、神田はアレンの前ではいつも凛として前を向いていた。後ろ向きになったり、つい逃げ腰になるアレンを叱咤してくれていたのはいつだって神田で-----だから他人にも自分にも厳しい彼が、あんなに不安そうな顔を人前でしていたのが信じられなかった。
 どうかしたの? そう声を掛けようとして伸ばした左手を払われた瞬間、アレンは驚きに目を瞠った。それは神田から拒絶されたことにでは無く、手を払った神田こそが、あまりに張り詰めた表情で自分を見下ろしていたからだ。
 おおよそ彼には似つかわしくない。迷いや焦りの色。
 その原因が自分にあるのだと分かったのは、長い間一緒に過ごしてきたことからの勘だったのかも知れない。
(大丈夫、心配しないで)
 願いと共にパチンッと何かが弾けて、そこから溢れ出した気持ちは静かに心の中を満たしていった。
 感じたことの無い温かな想いの中には確かに寂しさも混じっていたけれど、この別れを駄々を捏ねて拒むほど、アレンも子供ではない。
 ただ、神田の心が晴れれば良い……と。
 大切な人を一番に想う気持ちは変わらない。その想いはいつだって理屈では無いけれど、今までとは確かに何かが異なっていた。
「アレン……?」
 黙り込んだアレンを心配した黎花が、不安そうに声を掛ける。
 ゆっくりと目蓋を持ち上げたアレンは翳りの無い微笑を浮かべて、もう一度「大丈夫です」と言った。
「黎花……僕、目が覚めた気がするんです。ずっと、今までは眠っていたみたい。目が覚めて、世界ってこんなに綺麗なんだって初めて知った。それが、神田が居なくなってしまうことと引き換えに気付かされたものでも、世界は色褪せないんです」
「……寂しくない?」
「寂しいよ。だけど僕がそんなだと、神田は安心して行けないから」
 その言葉に、ようやく泣き止んでいた黎花の視界はまた滲んだ。
 離れたくないと望む本心を抑えてでも、神田が安心して行けるようにと笑顔で言うアレンの心は本物だ。
 思わず、「やっと気付いたの?」と揶揄したくなったけれど、黎花は震える声で「そう」とだけ呟いた。
 -----ほら、やっぱり誰かがお節介を焼かなくたって、この二人の関係は自然と悪くない方へ向かってく。私の思った通りでしょう?
 誰かに、世界中の人に、そう言いたくなった。
「神田のとこ、行くんでしょう?」
「うん、ちゃんと言ってくる。……本当は、ちょっと怖いんだけど」
 自分が子供だからとか、同性だからとか、そういう根本的な理由ではなくて。
 神田との別れが決まってからようやく不安そうな顔をしたアレンに、黎花は短い溜息を一つ吐いた。
「大丈夫じゃない? 凄く鈍感そうだけど、でもはぐらかしたりは出来そうに無い性格だし」
 自信を持って言い切ると、目を丸くして聞いていたアレンが突然噴出した。
 何を笑うことがあるのかと訝しげに眉を顰めていると、一頻り笑ったアレンが息を整えながら「ごめんごめん」と苦しそうに謝る。
「はぁ……黎花って、神田のことよく分かってると思う」
「……別に嬉しくないけど、ありがとう」
 本当に嬉しく無さそうに言うと、アレンはまた声をあげて笑った。
「じゃあ、ちょっと行って来ます」
「行ってらっしゃい」
 席を立ったアレンの後姿を見詰めながら、黎花はふっと切なく瞳を伏せた。
 大切に想う誰かが、いつも笑顔でいてくれれば良い。そう願うこの気持ちは、果たして今アレンが抱えているものと同じ種類のものなのか。
 答えを知りたいような知りたくないような複雑な心境の中、大して離れてもいない場所から振り返ったアレンがもう一度、「行って来ます」と手を振る。その笑顔をといったら、ちょっと憎たらしいぐらい晴れ晴れとしていて、「良いから早く行きなさいよ」と動物を追い払うように手を動かした。
 アレンが食堂を出ようと扉に手を掛けると、コムイの後を追って出て行ったリナリーと、神田の部屋に行ってくるとこの場を離れていたラビが入れ違いに戻ってきた。
 出て行こうとしているアレンを引き止めた二人は初めこそ不穏な顔をしていたが、二、三言葉を交わした後、少し目を瞠って、そして三人で笑い合った。
 少し離れた場所からその遣り取りを見ていた黎花は、まるで魔法だ、と思う。それもきっとアレンにしか使えない、特別な魔法だ。
 そこに居るだけで、笑っているだけで良い。それだけで、周りにいる人間は巻き込まれる。
 不安な思いも、頑なな心も、あの笑顔の前では無意味で、だから黎花もこの場所から離れることが惜しくなるくらい、団員たちと仲良くなれた。
 科学班の一員になってエクソシストや教団の役に立てる以外にも、もっと何か出来ることがあれば良かった。別れを目前にしてそんな風に思うのは座長の信念に反したが、アレンにだけは、もっとたくさんの何かを返したかった。
 痛む胸を抑えて俯き気味だった顔を上げると、アレンを見送った二人が笑顔でやって来る。
「アレン、何か言ってた?」
 気を紛らわせるように声を掛けると、ラビとリナリーは互いに顔を見合わせて、思い出し笑いをするかのように肩を揺らした。
「『大丈夫だ』ってさ」
「ふぅん?」
「正確には、『黎花が大丈夫って言ったから大丈夫』って言っていたんだけどね」
「え?」
 どういう意味? と首を傾げると、「アレン君に言ったんでしょう?」とやっぱり意味の分からない言葉が返ってきた。
「『神田は凄く鈍感そうだけど、はぐらかしたりは出来そうに無い』って」
「あ……」
「ほーんと、その通りさ。黎花、マジでユウのことよく分かってる」
「それに親友からの言葉だもの。きっと信頼してるんだわ」
「親、友……?」
 呆然とその言葉を繰り返すと、ラビとリナリーは「違う?」と目を丸くした。
 黎花本人は、ただ“仲の良い友達”だと思っていた。それはきっとアレンも同じ筈で、けれど第三者からはそんな風に見えていたんだとは思わず、黎花は込み上げてくる想いに泣きそうになった。
 切なさを訴えるこの想いが例えアレンと同じものでも、今胸に溢れるのは哀しみや寂しさじゃない。
 今はただ、次に会うときのアレンの顔がさっきよりももっと晴れやかであれ、と。
 そう願うこの気持ちこそが、黎花の中の『本物』だった。















 本部に在籍してから与えられた部屋の天井は見慣れてはいたものの、任務で不在だったことが多かった所為か見飽きてはいなかった。
 初めから割れていた窓ガラスも、元は誰の部屋だったのかも、そんな些細な疑問も持ったことは一度も無い。
 唯一の所有物以外で関心がある物はここには一つも無かったな、と神田は改めて思った。
 任務の後というわけではないのに、ともすればそれ以上に疲労を感じている身体をベッドに投げ出したまま目蓋を閉じると、ついさっき見たアレンの驚いた顔が眼裏に浮かんだ。呆然としているだけで、哀しんではいない。それともあまりに突然のことに驚いて、どう反応すれば良いのかも分からなかったのか-----。
 ついさっきここへ来たラビからも、「どうして何も言わなかった」と怒りを押し殺した声で訊かれた。

   ノックの音にアレンが追ってきたのかと思った神田は、緊張した面持ちで扉を開けた瞬間に浴びせられた第一声に、ラビの神経を逆撫でするように溜息を吐いた。
 「どうして」も何も、神田だってほんの数時間前に聞かされたのだからどうしようもない。
 コムイは数日前にその報告を受けていたらしいが、今回のパーティー中に団員たちに発表するぎりぎりまで支部やヴァチカンとも掛け合っていたらしい。
 結局決定が覆ることは無かったが、それでも普段にも増して濃くなっていた隈を見る限り、相当粘ったのだろう。
 簡潔に経緯を説明するとラビはすんなりと怒りを鎮めたが、すぐに表情を曇らせた。その理由は言われなくても分かっていただけに、二人の間にはしばらく沈黙が流れた。
(アレン、なんか言ってたさ?)
(……いや、阿呆面で突っ立てた)
(そういう言い方すんなよ。驚くに決まってるだろ? しかもこの時期に……)
 濁された語尾に顔を顰めたのは、ラビの言う『時期』が何を指しているのかすぐに分かったからだ。
 アレンは何年も雪の降るこの季節に体調を崩し、それは今回も例外じゃなかった。
 いくら忘れていた過去を思い出させたとは言え、来年の今頃に体調を崩さないという保障は無い。
 雪の降るこの季節は、アレンにとって大切なものを奪い取られる象徴。下手をすればフラッシュバックを起こして、今までよりももっと酷い状況に陥らないとも限らない。そしてその時、神田は傍には居ないのだ。
(よりにもよってユウを指名なんざ、御目が高いさ)

 厭味をたっぷり含んだ言葉を思い出してフッと口許を歪めた神田は、いつから溜め込んでいたのか、大きな溜息を細く長く吐き出した。
 アレンが誰よりも自分に懐いている自覚があっただけに、いっそ悪印象を植え付けて去ってやろうかと、伸ばされた左手を自棄になって振り払った。行き場を失くした手はアレンの心そのもののように思えて、自分を見上げる瞳に涙が浮かばないかと息を呑んだが、アレンはただ驚いた顔のまま黙って見詰めているだけだった。
 それから誰かが「水臭いじゃないか」と場の勢いで話し掛けてくると、すぐに神田の周りには人だかりが出来た。傍に居た筈の小さなアレンの姿はどこかに追いやられ、押し寄せてくる団員に押し潰されてはいないかと危惧して視線だけで探すと、少し離れた場所に避難できたらしいアレンと目が合った。
 責めることも、問うこともしない。かと言って無機質というわけでもない瞳を、神田は長い間共に暮らしてきた中で、初めて見た気がした。
「-----クソッ」
 見慣れた天井も、割れた窓ガラスも、未練の無いこの場所も全てどうでも良い。
 ただ一つ心を揺さぶるのは、真っ直ぐに自分だけを映し出していた、あの銀灰だった。
「神田」
 不意に声を掛けられてベッドがから飛び起きると、扉の向こうで「居る?」と再度確認の声が聞こえた。
 声の主は、たった今まで眼裏にいたアレンだ。
「開いてる」
 短く返事をすると、白い頭が遠慮がちに部屋を覗き込んだ。
 室内に入る事を許されたアレンが嬉しそうに笑うのを呆れた思いで迎えるのは、飽きるほど繰り返された日常の一部だった。
「遅くにごめんね? あの、どうしても、神田に言っておきたいことがあって……」
 躊躇いがちに切り出したアレンは後ろ手に扉を閉め、ベッドに腰掛けている神田にぎこちなく笑い掛けた。
 目の前のたった数メートルの距離が、明日には何万キロにもなる。
 朝起きて隣の部屋をノックしても返る声は無いし、食堂の隣の席を空けておく必要も、寒い水路で待つ理由も無い。
 分かっていたつもりでいたのに、いざ向き合ってみるとその事実は胸を引き裂くような力を持っていて、アレンは唇を噛んだ。
 いつもなら部屋に入るなり隣に座るところだけれど、今日はそんな「いつも通り」が出来ない。明日からはもう本当に出来なくなるのだと分かっているからこそ、こうして少しずつ慣れなければいけないのだと心に言い聞かせた。
「僕もまだ気付いたばっかりで……だから、上手く伝えられるか分からないし、神田は気持ち悪いって思うかも知れないんだけど……でも、今言わなくちゃ絶対に後悔すると思ったから」
 努めて出した静かな声は、けれど自分で分かるほど震えていて、震える拳にぎゅっと力を込めた。
「気付いたんです。神田のことが好きだって。もちろん黎花もラビもリナリーもコムイさんたちも皆好きだけど、そういう好きじゃなくて、神田だけは僕の中で特別なんだって。僕は子供だし、男だし、こんなこと言われても困るだけだって分かってるんだけど……でも、好きなんです。おかしいって、変だって思われても……」
 好きなんです、と。何度か口にした言葉を言い終わらないうちに、床にぽたぽたと涙が落ちた。
 一気に喋ったせいで酸欠にでもなったのか、頭がぼうっとして、心臓がどくどくと煩くて、息が乱れている。
 真っ直ぐ前を見据えるアレンの瞳には、困惑とも驚愕ともとれる表情の神田が映る。同じように、漆黒の中にも、アレンだけが居た。
 崩れ落ちそうな雰囲気を纏ったまま、アレンは目を逸らす事無く返される言葉を待つ。その瞳は神田の心を揺さぶったあの時の瞳とよく似ていたが、今のアレンの双眸は、あの時よりも何倍も強い意思が込められていた。
「……俺は、明日の昼にはここを発つ。アジア支部にはただの応援じゃなく、移籍するんだ。ここには戻って来ない。当然、お前と会うこともなくなる。向こうに着任すればアジアでの任務が大幅に増えて、余程のことが無い限り欧州圏内には足を運ぶ機会も無い」
 はぐらかすでは無く、神田はただ事実を口にしていった。
 本人の口から絶え間なく溢れる辛い現実はアレンの胸をこれ以上無いほどに抉ったが、アレンは零れ続ける涙をそのままに、途中で何度か頷きながら黙って聞いていた。
「お前はこれから鍛錬を積んで、見たことの無い世界を知って成長していく。そこに俺は居ないし、俺の生活の中からもお前は居なくなる。……感情や想いなんていうものは永遠じゃないし、絶対でも無い。お前が俺を好きだって言う気持ちが嘘だとか、そんなことを言うわけじゃねぇ。けどな、人の気持ちは変わるもんなんだ。いつか-----お前は俺を忘れるかも知れないし、俺も……」
 忘れるなんて、そんなことがあるわけが無い。
 そう咄嗟に口を開こうとして……途中で途切れた神田の言葉に、アレンはぐらりと床が揺れた気がした。
 神田の言っている言葉は全て正しくて、そこに間髪入れず言い返せるほどの人生経験がアレンには無い。けれどショックだったのは言い返せなかったことではなく、神田が口にすることが全て一般的には誰もが納得し、受け入れられる「理屈」だったからだ。
 よく考えてみろ、と。もう一度よく考えろと言われているのが分かった。
 正論を語る神田はどこまでも大人で、感情のまま泣き続ける自分がどれほど子供なのか知る。神田の目に今の自分は酷く幼く映っているのだろうと思うと、どうしようもない恥ずかしさと悔しさが、この部屋に来たときまで大事に抱えていた勇気を容赦無く踏み躙った。
 縮まることの無い歳の差や、追いつけない経験。見えない壁がいくつも邪魔をして、それらを思い知らされる度に涙が溢れる。
 心を丸裸にしたアレンに理屈という名のナイフから身を守る術はなくて、切り付けられた場所から見えない血が流れ出す。
 神田が自分の将来や可能性を思って言ってくれていると解っていたからこそ、そのどこにも神田自身の想いは垣間見れなくて、だから哀しかった。
 -----終わらせよう、この話を。
 泣きすぎた所為で朦朧としたアレンの頭は、ようやく一つの行動に出た。
「神田のことが好きだって気持ちに気付けたから……だから、僕は神田と離れても大丈夫だって、思えたんです」
 もう、アレンに表情を取り繕う余裕は無かった。
 だからこそ無意識に浮かんだ笑顔は心からのもので、一点の曇りも迷いも無い純真さが、その言葉のどこにも無理や偽りはないのだと教えた。
「この気持ちがあれば、寂しくないから。だから……心配しないで、行って下さいね」
 その見たことも無い笑顔に、神田は目の前に居るアレンが別人に見えた。
 見慣れていた筈の、見飽きた筈の面影はどこにもない。
 こうして音も無く失われていく日常が、いつの日か日常になる。

(いつか-----お前は俺を忘れるかも知れないし、俺も……)

 忘れる?
 この涙を。
 微笑みを。
 アレンという、人間を。


 -----カチ、

(ねぇ、)

 -----カチ、カチ、

(神田にとって)

 カチ。


(アレンってどんな存在?)


 時計の針が重なったとき、黎花の言葉がふと頭を過ぎった。
 閉まる扉の向こうに消えかけた姿を咄嗟に腕を掴んで室内へ引き戻す。
 突然のことによろけたアレンはそのまま後ろへ傾き、神田の胸に倒れ込んだ。
「ッ、」
 睫毛に付いていた最後の滴が、瞬きに震えて落ちる。
 泣いたせいで熱くなっていた身体は外気に冷えて、抱き締められたことで伝わる温かさが心地好かった。
「神田……?」
 背後から抱き締められているせいで表情が窺えず、アレンは「どうしたの?」と小さな声で訊いた。
 自分の手より何倍も大きな手にそっと触れると、まるでどこにも行かせないというかのように更に力が込められる。「痛い」と口に仕掛けて止めたのは、こうして抱き締められている理由が分からなくても、ただ触れて、触れられていたかったからだ。
 そのきつい抱擁からようやく開放されたのは、おそらく数分後。けれどその短い間は、何だか永遠のようにも、ほんの瞬きほどの時間のようにも感じられた。
「二十五日だな」
 耳元で聞こえた言葉に目を瞠って振り返ると、
 いつの間に日付が変わっていたのか、アレンは部屋にあった時計を見て初めて気付く。
 時計の短針は0と1の間を、長針は2の辺りを指している。
 アレンは、十二歳になったのだ。
「何が欲しい」
「え……?」
 口をぱくぱくと動かすだけのアレンに、神田は「早く言え」と不機嫌を露に急かした。
「……言わなきゃ何もやらねぇぞ。3、2、」
「ッ、や、か、-----神田!!」
 カウントダウンに焦って声を荒げると、たった一言に全ての力を出し切ったアレンはぺたんと床に座り込んだ。
 部屋に引き戻されたことも、抱き締められたことも、こうして何もなかったかのように欲しい物を言えと言われることも、まだ何も心の整理がつかない。
 それでも頭を空っぽにして、今求めている物は何かと問われたら、アレンには一つしかなかった。
 何ものとも引き換えに出来ない。誰も、代わりには成り得ない。
 叶わなくても、手に入らなくても、求めるのはたった一つ。
 たった一人の、心が欲しい。
「……神田が、欲しい」
 震える声で言い直すと、少しの沈黙の後に「そうか」と短い返答が返された。
 再び襲ってきた胸の痛みにきつく目を閉じたとき、不意に唇に柔らかなものが触れる。
 その正体が分からずゆっくり目を開けると、焦点が合わないほどすぐ近くに、精悍で美しい顔が見えた。
 しっとりと濡れた感触はすぐに離れて、呆然としているアレンは離れていく神田の顔を凝視した。
「か、ん-----」
「-----最悪だ」
「へ?」
 意味が分からない。
 キスをしたことが最悪なのか、その相手が自分だからか最悪なのか。結局浮かんでくる『最悪』の意味は絶望的なものばかりで、アレンは殴られたような衝撃を感じて項垂れた。
「十一歳も離れたガキ相手にして……犯罪者じゃねェか。ったく」
 けれど聞こえてきた舌打ち混じりの言葉に、ハッと顔を上げる。罰の悪そうなしかめっ面は、真っ黒に塗り潰されていたアレンの心に歓喜を齎した。
「っ、ふ、うぇ……ッ」
「な、……何で泣く必要があるんだよ。欲しいものは手に入っただろうが」
 呆れたように神田が背を叩いてくれている間、心の中は喜びと寂しさで埋め尽くされていた。
 諦めかけたものを得たことへの幸福感に満たされて、そして同時に失ってしまう朝が訪れることは、やっぱりどうしようもなく寂しかった。
「行きます……絶対っ、会いに行きますから……ッ」
「……あぁ」
 会いに行く、と。口で言うほど簡単では無いそれを、神田は否定しなかった。
 会いに行く、と。そうアレンが言うのなら、それはいつかきっと現実のものになるだろうと思ったからだ。
 しばらくすると緊張の糸が切れたのか、単に泣き疲れたのか。
 くったりと寄り掛かってきたアレンをベッドに寝かせ、神田自身もシーツの上に身を埋めた。
 寝言で自分の名を呼ぶ唇に軽いキスを落とし、そんな無意識の行動に「末期だな」と妙な感想を漏らす。
 覚悟して決めた事とは言え、明日から無期限で会うこともなくなると思うと、らしくもない焦燥感が湧いた。
 
 もし黎花があの質問をしたのが今なら、神田は迷う事無く「『日常』だ」と答えただろう。
 傍にいても、離れても、アレンは神田にとって日常の一部だ。
 慣れて、飽きて、当たり前になるほど繰り返される日々。抜け出したくなるような、だがいざその時が来ると、かけがえの無いものだったと思い知る。
 そして結局は手放せない。いつまでも傍に在って、それこそが当たり前であれと-----日常であれと願う。
 それは決して口には出来ない、神田の『本当』だった。

























----- 3 years ago.
























 資料整理の為に登っていた梯子を降りた少女は、目の前にある莫大な量の本や紙切れを見ながら溜息を吐いた。
 アジア支部に配属されて早三年。
 毎日毎日増え続ける資料を片付けるのは一苦労な上、今日はあるイベントの為に団員の手が足りず、貧乏くじを引いた結果たった一人で資料室の整理を任される羽目になった。
 今日という日が来るのを心から楽しみにしていたというのに、いくら運とはいえあんまりな仕打ちだ。夜のお祭り騒ぎに間に合うように朝早くから始めてみたものの、すでに時計の短針は6を指していた。
「ぎりぎり、間に合ったかしらね」
 ふぅ、と一息吐いて白衣の埃を払い、凝り固まった肩を解すためにぐっと背伸びをする。
 ぱきぱきと鳴った骨に「まだ若いのに」と眉を顰めていると、
「黎花ぁ、黎花居る〜?」
なんとも気の抜ける間延びした声で名を呼ばれ、書棚に預けていた身体がずるずると十数センチ下がった。
 声の主は落ち着きの無い、もっと言えば、昨日の夜に当たりくじを引いた幸運な同僚だった。
「何か用? 蝋花」
「あ、黎花!! ねぇ聞いた? 今日このアジア支部に配属されるエクソシスト、すっごい美少年なんだって!!」
「……ふぅん?」
 そんなことを言いに来たの? と言いたい気持ちはもちろんあったが、内容が内容だけに口を噤んだ。
 蝋花が嬉々とした表情でそのエクソシストの特徴や経歴を語っている間、黎花はどうでも良さそうに相槌だけを返す。
 髪の色が雪のように白いだとか、瞳が星のような銀色をしているだとか、確かに嘘では無いけれど、本物と面識のある黎花にはどうしてもその美化された表現が可笑しかった。きっと本人に同じことを言ったら、顔を真っ赤にして照れるだろう。
 三年前に別れたあの日から、一度も彼の姿は見ていないし、声も聞いていない。
 手紙の遣り取りも思い出したように不意打ちで送ったり送られてきたりする程度で、お互い色々と忙しいせいでマメなことは出来なかった。
 だから数日前、『アジア支部への移籍が決まりました』という電報をもらったときは信じられない思いだった。
「楽しみじゃない? しかも私たちと歳が近いのよ。やっとまともに会話できる男の子が-----」
「蝋花」
 きらきらと目を輝かせて喋り続ける言葉の端にぴくりと反応した黎花は、地を這うような声で名を呼んだ。
「言っておくけど、その新人に手を出したら承知しないわよ」
「えぇ、どうして!?」
「どうしても」
 唐突に告げられた「お預け」に不満の声を漏らす蝋花を横目に、黎花はうんざりと肩を落とした。
 今日ここに移籍することが決まっている美少年エクソシストには、もう三年も前から決まった相手がいるのだ。三年間も遠距離の恋を守ってきた二人の仲を邪魔できる者がこの支部に居るとは思えないが、不安要素は事前に牽制しておくことにこしたことはない。
 それは、親友としての勤めだった。
「黎花、もしかしてもうその子の顔見たの? その子があんまり格好良かったから独り占めしようとしてるのね!?」
「あのね、あんまりくだらない事言ってると怒るわよ?」
 本気の怒りを滲ませた黎花の目を見て、一応冗談で言っていたらしい蝋花は「嘘よ、嘘」と声をあげて笑った。
「あ、そういえば私、用があって来たの。元帥が見当たらないのよ。せっかく自分の初弟子が配属されて来るっていうのに……黎花見なかった?」
「……迎えにでも行ってるんじゃないの? その新人エクソシスト、すっごい方向音痴だから」
 大した事の無いように言うと、たった今まで笑っていた蝋花はぴたりと声を止め、レンズの奥の瞳を訝しげに細めた。
「元帥が迎えに行くわけ無いじゃない。あの元帥よ? ……あれ? 黎花、どうして新人君が方向音痴って……」
「蝋花、ここで無駄に喋ってる暇があるのなら会場の飾り付けしてきて。それともこの資料整理手伝って-----」
 言葉の途中で回れ右をした蝋花の背に呆れの溜息を零し、黎花は粉雪の舞う窓の外へと視線を移した。
 しんしんと降り積もる雪は、温度も、音も、命すらも奪い取る。
 今まではそんな哀しい意識しかなかったけれど、今日からはきっと、再会の証になる。
 三年の月日は人の容姿や立場を変えるのに十分な歳月だったけれど、初めは慣れない環境も、いつかは飽きるほどの日常に変わるだろう。

 これからの日々に思いを馳せながら、黎花は遠くから並んで歩いてくる二つの団服姿に、小さな笑みを零した。


「さて-----あったかはちみつミルクでも作って待つとしますか」
 














Fin.
Back

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相談に乗ってくれたお友達、
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感想メールを送って下さった読者様、
そして10万という回数までカウンタを回して下さったあなた様、
本当に、ありがとうございました!

07/12/30 canon





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