例えば、小さな仔犬がいるとする。
その仔犬はとても大喰らいで愛嬌が良く、どこへ行っても、どんな犬種とも数十分程度で仲良くなるというちょっとした特技を持った犬だ。
瞳は大きく、色は夜空に輝く星のような銀灰色。
毛色は純白で、撫でてやると吸い付くような触感が手に残り、いつまでも撫でていたいと大抵の人間に思わせる。
だが、そんな可愛らしいことこの上ない仔犬に手を焼いている存在が居ることを、どうか忘れないで欲しい。


元帥様のお気に入り。

その、いち。



 その日、神田はいつもより遅い時間に目を覚ました。
 遅い、と言っても自室の壁時計は午前七時を回ったばかりで、任務の入っていないエクソシストならもう少し遅く起きても誰にも文句は言われない。けれど、一日の始まりを夜明けと共に迎える神田にとっては、とても珍しいことだった。
 上半身を起こして、ぼやけている焦点を定めようとしばらく一点を見詰める。その所為で眉間に数本刻まれた皺を指の腹で伸ばして、ようやくベッドを離れた頃には起床から数分ほど経っていた。
「――ッ、て……」
 ずきん、と痛んだこめかみを押さえ、深く息を吐き出す。口臭に混じったアルコールの臭いにうんざりと肩を落とした神田は、乱暴な動作で歯ブラシを手に取り、歯磨き粉を付けて口の中に押し込んだ。

   昨夜、一月ぶりに本部へ帰還した神田は栄養価のある食事を摂り、ゆっくりと湯船に浸かって身体の汚れを落とし、あとは寝るだけという心地好い気分で自室を目指していた。
 今回は短期と呼べる任務で場所も遠くないことから、所属する部隊から単独でこの任務を負った。
 比較的小さな街だったこともあり、レベル2のAKUMA数体は若いエクソシストの中でも優秀な神田の敵ではなかった。
 イノセンスは無事に回収し、受けた攻撃は無いに等しい。
 普段なら任務直後は気が立っているところだったが、この時ばかりは傍目から見ても『機嫌が良い』という認識が出来、団員たちの心の平穏が保たれていた。だがそれは、
(あっ、おかえり神田!! 待ってたんだよ!!)
 この一声が彼の耳に入るまでの、束の間の安息だった。

 口の中を濯ぎ、顔を洗ってタオルで水気を拭き取る。
 冷たい水で一気に清々しくなる目覚めの一方で、同時に思い出したくない昨夜の出来事が鮮明に甦ってきてしまった。
 風呂から自室へ戻ろうとしていたのが、午後九時を回っていたことは覚えている。それから意味の分からない『おかえりパーティー』と言う名の飲み会に強制連行され、そのパーティーとやらがいつお開きになったのかは、すでに記憶に無い。分かっているのは、自分が意識を失うほどの酒を飲まされたということだけだ。
「それもこれも、あの元帥のせいだ……」
 ふと顔を上げると、鏡の中に映っている男の目の下には薄っすらと隈が確認できた。日頃から浅い眠りには慣れていた筈なのにどうして――と考えたところで、神田はぎり、と奥歯を噛み、大きな舌打ちをして自室を後にした。

 
「クソッ、あのモヤシ……っ」
 食堂へと向かう途中、団員から擦れ違いざまに挨拶をされても、不機嫌に加えて目の下に隈を浮かべている青年エクソシストが返事を返すことはなかった。
 何故なら彼の頭の中は、朝食でモヤシ蕎麦を食べようという思いでいっぱいいっぱい――とうわけでは、もちろん無い。
 神田の思考を支配しているのは、疲れきった弟子をまるで労わりもせず、挙げ句にできたことのない隈まで教えてくれた師への怒りだった。
「だーれだっ」
「!?」
 突然背後から視界を覆われ、咄嗟に帯刀していたイノセンスへと手を伸ばす。だが一瞬速く、手を伸ばせばあった筈の場所から、六幻は姿を消していた。
「ほら、早く言わないと没収するよ?」
 声変わりを迎えていないのか、それとも声変わりをしていてこの軽やかなアルトを出しているのかは定かでは無い。
 そんなことよりも今神田にとって重要なのは、自身の武器であるイノセンスが、この世で最も苦手とする人物の手へ渡っていることだった。
「放せ!!」
「ちょっと、年上の上司に向かってその口の利き方は無いんじゃないの?」
 不服を唱えながら手を放した“上司”はむぅと唇を尖らせ、手の中の六幻をくるくるとバトンのように回す。それを見た神田の怒りが頂点に達しそうになると、ふふっと楽しそうに笑った上司は大人しく六幻を持ち主へと返した。
「おはよう、神田。それと、僕の名前はモヤシじゃなくてアレン・ウォーカーだから」
「ッ、アンタどっから湧いて出た!!」
「ずっと神田の後ろを歩いていたけど……気付かなかった? 駄目だよ。いくら教団の中でも、そんなに気を緩めてちゃ」
 上司らしく部下を叱る口調に、「めっ」と人差し指を突き立てる必要がどこにあるのだろうか。
 二日酔いに痛んでいた頭が、全く別の理由で痛みを増していく。
「今から朝ご飯でしょう? 一緒に行こう」
「勝手に行って下さい。わざわざ一緒に行く理由はないでしょう」
「えー、じゃあ僕のご飯は誰が運んでくれるの?」
「自分で運べ!!」
 本気で火を噴く獅子に、仔犬はことりと首を傾げた。
 愛嬌たっぷりの仕草は大抵の人間に有効だが、神田は強い意思を持ってその攻撃から身を守っていた。
 この手の生き物は、甘やかすと図に乗ると相場が決まっている。初めの躾が肝心なことくらいは、動物に興味の無い神田でも知っていた。
 一度でも情にほだされることがあれば、それは今後の生活に支障を来たしかねない。
 だがそんな胸の内を、この天然上司は知るはずも無く。
「上司――元帥のご飯、僕の部隊に所属している君が運んでくれても、誰も不思議には思わないよ?」
 寧ろ、今では当たり前の光景として受け入れられている。そしてアレンは、神田がそれを腹の底から嫌がっていることを微塵も知らない。
 否、寧ろ知っていてこの天然ぶりを発揮しているのだとしたら、相当のものだ。
「……俺がアンタの部隊に配属される前は、誰が運んでたんです」
「自分」
 怒りの沸点を軽く超え、神田は冷笑を浮かべた。
「訊いた俺が馬鹿でした」
「え、ちょっと、待って神田!!」
 ぱたぱたと足音を鳴らして駆けてくるアレンを振り返る事無く、神田はコンパスの長さを利用して一足先に食堂へ入る。
 予想していた事とはいえ、この時間帯は団員がひしめき合っていた。
 やはり身体に鞭打ってでももう少し早く起きるべきだったな、と今更なことに溜息を零していると、少し遅れてアレンがやって来る。
「もう、何で置いてくかなぁ……」
「話し掛けないで下さい」
 きっぱりと言い切った神田は料理長に朝食の注文をし、食事が出てくるまでの間、背後に居るアレンをまるで存在しないかのように見ようともしない。
(嫌われてるなぁ……僕)
 端正な横顔を見上げ、アレンは項垂れた。

 史上最年少で元帥に昇格して以来、周囲からは羨望と特別な眼差し向けられることもあったけど、その心境には仄暗い陰が落ちていた。
 世の中、年下の上司を持つことは珍しく無いかも知れない。
 だけど年上の部下を持つことに戸惑いを拭えなくて、正直上手くいかないことが多かった。
 自分は年下なのだから敬語を使わないで欲しいと言えば、何歳も年上の新人エクソシストは目を輝かせてそれを否定する。またあるときは、随分プライドの高い年上の部下から、「年下に物を教わるなんて出来ない」とごねられて、実戦に必要なチームプレイというものを全くと言っていいほど築けなかった。
 自分には物を教えたり、他を統率する才能が無いのだろうかと落ち込んだ。
 結局そんなことが原因で、元帥に昇格して数年はまともに弟子というものをとったことがなかった。

 ―― その悩みが解消されたのが、今から二年前。
 当時十六歳だった神田が、エクソシストとして本部へ配属されたのだ。

(あの時は可愛かったな。性格は変わらないけど、身長は僕とそんなに変わらなかったし……)
 それが今ではアレンより十センチ近くも高く、隣を見れば同じ高さにあった漆黒の双眸も、こんな風に見上げなければ見えなくなってしまった。
(いつの間に、こんなに育ったんだろう)
「はーい、ざる蕎麦お待たせ〜」
 ぼんやりと考え事をしていると、定番メニューをトレイに乗せた神田が去っていくのが視界の端に見えた。
 ハッと気付いたアレンは咄嗟に手を伸ばし、高く結われていた黒髪を勢いに任せて思いきり引っ張ってしまった。
「そっちじゃない……!!」
「――!?」
 ぐんっ、と首を逸らした神田は突然の衝撃によろめき、なんとか転倒することは堪えたものの、その場に片膝を着いて激しく咳き込んだ。
 近くに着席していた団員たちは心の中で「ひぃぃぃぃっ」と情けない声をあげ、「自分は何も見なかった」とばかりに一斉に目を背ける。
 ただ一人、加害者であるアレンだけは、涙目で睨め上げてきた弟子の鋭い視線を一身に浴びた。
「あ、や、あの、ごめん、その……あっちに、」
「っ、ゴホッ――……ンタ、俺に一体何の恨みがあるんだよ」
「ち、違……」
「ユウ〜、こっちこっち」
 騒がしい食堂の中、飛びぬけて聞こえた明るい声にファーストネームで呼ばれた神田は舌打ちをした。
「こっち空いてるさ〜」
 嫌々ながら声の方向に首を回せば、そこには同僚の、つまり同じウォーカー部隊に所属している赤髪の青年が手を振っているのが見えた。
 神田はしばらく悩んだ様子で辺りを見回したあと、他に身を落ち着けられる場所が無いことを知ると、渋々と二人が待つテーブルへ足を運んでいった。
「おはよう、ユウ」
「ファーストネームで呼ぶなクソ兎」
「どうでも良いけど、元帥のご飯はどうしたの?」
 着席しようとした瞬間、燗に障る言葉にぴくりと眉が跳ね上がる。
 赤髪の青年――ラビの隣に座っていたリナリーもまた、神田と同僚だった。
「この後、持って来てあげるの?」
「何で俺がそんな面倒臭ぇことしなくちゃいけねェんだよ」
 こめかみに青筋を立てて睨みつけると、リナリーは肩を竦めてラビを見遣る。視線を受けたラビは呆れたように首を振り、ゆっくりと、そしてじっとりとした視線を神田へと向けた。
「ユウ、お前が今そこに座ってられんのは元帥のおかげなんだぜ?」
「……あ?」
 何を言い出すのかと思えば、と怪訝に顔を顰めると、目の前の席に座る二人から長い溜息が吐き出された。
「あのね、神田。ここはウォーカー元帥が私たちのために、毎朝場所取りしてくれてるのよ?」
「今日だって、昨日飲み会に遅くまで付き合わせた所為で起きるのが辛いんだろう、って心配して、お前のこと迎えに行ったんさ」
 初めて聞く話に、箸を持つ手が固まる。
 そんなこと、あの元帥は一度も言っていない。
 そんな話は、一度も聞いていない。
(何だって、そんな事 ――)
「可愛いからでしょ」
 困惑の表情を浮かべた神田に気付いたリナリーが、視線を落として呟いた。
「私、前に元帥と話したことあるもの。私たちが弟子に決まったときどう思った? って。そうしたら元帥、『後輩が出来て嬉しい』って言ったのよ。『部下』じゃなくてね。……私たちの中では一応神田が一番弟子になるわけだし、そりゃ可愛いんじゃない? いくら性格に問題ありでも」
「……」
 それ以上は、ラビも何も言おうとはしなかった。
 食事を始めた二人に置き去りにされ、中途半端に箸を持ち上げていた手を下ろす。ちらりと後ろを振り返ると、食堂の入り口付近では続々と出てくる料理の山を待つアレンの姿があり、神田はがしがしと頭を掻いて苛立たしげに立ち上がった。


「――と、あんみつと、みたらし団子三十本!! これで全部ね、アレンちゃん」
「はい、ありがとうございました」
 料理長に頭を下げ、「さて」と一息を吐く。
 『話し掛けるな』とまで言われては、さすがに同じテーブルにこの目障りな量の料理を持っていくわけにはいかなくなってしまった。かと言って、近くにこの量を置けるほど空いているスペースがあるわけでもない。
「立ち食い? いや、それはさすがに神田が音を立てて蕎麦を食べるくらい嫌だなぁ」
 楽観的にも聞こえる悩みにうーんと唸っていたとき、
「蕎麦は音を立てて食べるのが普通なんです」
「ヒッ、か、神田!?」
 先に席に着いていた筈の人物から声を掛けられ、アレンは数歩後ずさった。
 不機嫌さを惜しみなく伝えてくる瞳に見下ろされ、コクリと咽喉を鳴らす。
 何を言われるのだろうという不安を抱えてはいたものの、まずはさっきのことをきちんと謝りたかった。
「あの、かん――」
「そのあんみつと団子は自分で持って下さい。見たくもない」
「へ?」
 言うなり、神田はアレンが注文した大量の料理を手に、ラビとリナリーと、そして自分の朝食が置いてあるテーブルへと踵を返した。
 その後姿を、アレンは信じられないような気持ちで見詰める。
 まさかあの神田が、今まで一度も素直に言うことを利いてくれなかった弟子が、自ら進んで食事を運んでくれる日が来るとは夢にも思わなかったのだ。
「かん……神田ッ、待って!!」
「――?」
 嬉しさのあまり駆け出し、追いついた背中にタックルをかけるように抱き着く。
 本日三度目の不意打ちをくらった神田は、何品かの料理を音を立てて床にばらまいた。
「っ、アンタ何考えてんだ――!!」
 背に張り付いて離れない上司を諫めようと声を荒げるが、ぎゅぅっと腰を抱いている腕を引き剥がそうにも、両手は未だに大量の料理で塞がったままだ。
「チッ……おい、手ぇ貸せ!!」
 手も足も出ない状況に、不本意ながらこの惨状を見ていた同僚に協力を求める。だが二人は互いに顔を見合わせると、まるで何も聞こえていないような素知らぬ顔で食事を再開した。
「あ、あいつら……」
「かーんだ」
 人の気も知らずに、諸悪の根源は太陽のように明るい声で名を呼んでくる。
  この距離では無視をすることも聞こえなかったふりをすることも出来ず、神田はげんなりとした表情で肩越しに振り返った。
「……何ですか」
「んー、あのね、ありがとう」
「は?」
 唐突に発せられた一言は、部類からいくと『礼』になるのだろうか?
 驚きのあまりそんな考えが頭を駆け巡る中、ぱっと一度離れたアレンは今度は正面に回り、神田の肩口にぽふっと顔を埋めて両腕を腰に巻きつけた。
「そのままの意味だよ。ありがとう、神田」
「ッ、」

 ――吸い込まれるような星色の瞳。
 ふわりと首筋に触れた柔らかな雪色の髪。
 頑なな心もほどいてしまいそうな、とろけるような甘い微笑――。

 初めて仔犬の愛らしさを真正面から受け止めた神田は、朱を帯びた目許から熱が引くまで、その場を動けなかった。





















「あーあ。神田、固まっちゃってるけど良いの?」
「気にすんなさ。……『野暮が仇』って言葉もあるし」
「……今日も平和ね、我が部隊は」















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※ほんとーは「情けが仇」ですよー。「野暮」じゃないですよー(笑)
(好意でしたことが、却って相手の為にならないこと。です)

萌メッセから生まれるエトセトラ☆(Hさーん、やっちゃった/笑)
……ネタさえ尽きなければいくらでも書けるような設定です。
因みに神田君は現在18歳、ウォーカー元帥は21歳ですね。逆転3歳差。
「このままいけばアレン君、15歳で元帥だね」という根タから伸びた枝なので、
アレン君が元帥になったのは15歳設定です。(ってことはこの子、もう教団に6年居るんだわ/苦笑)

08/01/27 canon





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