そして、ぼくらは




 涙は枯れる。
 哀しみは永遠じゃない。
 必要だと言われれば、今すぐにだって戦地に立つ。

 そして、ぼくらは





 §





 世界は速度を変えずに、今日もまた地を照らす太陽を頭上へと掲げた。
 窓から入る陽射しに目を細めて、瞳を閉じる。目蓋の裏側に拡がる細い血管が赤い世界を作り出して、強い光に目の奥がじくじくと痛んだ。
 二日酔いのように痛むこめかみをグッと指で押さえながら、軽く身だしなみを整えて自室を後にする。
 昨日まで長期の任務に就いていた所為で、ここのところろくな食事にありつけていなかった。久々に食べる教団ご自慢の料理長のメニューが嬉しくて、自然と歩調が速まる。すれ違う団員から「おかえり」、「お疲れ様」と掛けられる声に笑顔で答えながら、アレンは寄り道することなく食堂へと向かった。


 その男がいつものように平然と好物を口にしている姿を見て、憤りを覚えなかったと言えば嘘になる。
 だけどすぐに考えを改められたのは、昨夜から今朝方にかけて惜しみなく流した涙のおかげだ。
 最初は泣いてなどやるものか、と意地を張っていたけど、泣いたおかげで心に渦巻いていた暗雲は晴れたような気がする。何より、彼を見てももう両方の目からは雨が降らない。
 きっと、そんなものだ。そんなものだったのだ。
 半ば言い聞かせるように繰り返し思いながら、アレンは彼を視界に入れないですむ席に着いた。
 少し前までは、斜め前あたりにその姿はあって、こちらが食事をする様子を心底嫌そうに見ていた。
 前菜もメインも順番なんて関係なく食べていると、少しは落ち着いて食えねェのかと呆れたように言われた。デザートのみたらし団子を一本一本味わって食べていると、俺の視界に入れるなと理不尽に怒られた。
 思い出してみると、懐かしいような気もする。もう戻らない時間だと思えば、尚更。

「アーレーン、おかえりさー」

 しなだれかかるように背後から圧し掛かられて、仕方なく食事の手を止める。
 肩越しに振り返るとオレンジ色の髪が見えて、声だけでもそれが誰か分かっていたが、わざと大きな溜息を吐いて返事をした。

「ラービー、重いですよ。 ご飯が食べられないじゃないですか」
「へへっ、そういうなって」

 悪気のない笑顔を浮かべて、ラビはよっと隣に座った。

「どーだった、任務。 ユウと一緒だったんだろ?」
「どーって……別に、いつもと一緒ですよ?」

 少なくとも、“任務”は。
 ラビは何かに勘付いて質問をしたのだろうが、話したくない話題の蓋を自分から開ける気にはならなかった。
 軽く瞠目した隻眼に、何が言いたいんですか、とは絶対に訊いてやらない。それが相手の思うつぼだということは、嫌というほど知っている。……そして、この程度で会話を打ち切るほど潔い青年ではないということも、嫌ほど。

「分かりやすい奴等。 わざわざ席離れちゃって……なーんか喧嘩でもしたんだろ? アレンから様子見てやれよ。 ユウが素直に謝るわけねぇんだしさ」

 呆れ顔でしたり顔なブックマンジュニアの顔をちろりと横目で窺い、アレンはふっと笑みをこぼした。
 事情を知らないとはいえ、彼の推測は今までの自分たちにならばっちり当て嵌まっていた。ただひとつ違っていたのは、今日が昨日ではないことだ。
 昨日まで、と、今日から、は、違う。
 それを今まさに身をもって体感しているアレンは行儀悪く頬杖をつき、ラビの顔を覗き込んだ。

「最近、平和ぼけしてませんか、ラビ」

 穏やかに刺された針のような言葉に、ラビはへ? と間抜けな声をもらした。

「僕たち、昨日別れたんですよ。 だから謝るとか謝らないとかじゃないんです。 違うんですよ」

 にっこりと微笑み、会話の終わりは軽やかなアルトで「めでたしめでたし」と締め括られた。
 呆気に取られているラビが、もう何を話しかけても取り合ってくれそうにないアレンと、遠いところで食後のお茶を啜っている同僚とを交互に見る。
 その忙しい首の動きを視界の端に見ながら、アレンは黙々と目の前の料理を平らげていく。

「冗談だろ……」

 まるで、「信じられない」というような声だった。
 それは当人たちが、あまりに平然としすぎているせいかも知れない。
 二人が心を通わせる関係になることを互いに望んで実現するまで、それなりに障害はあった。
 教団は十字架を掲げている組織で、同じ性別を持つ者同士の恋愛には決して寛容じゃない。
 それに、アレンたちはエクソシストという立場上、戦争が終わるまでは常に死がついて回ることになる。

『大切な者を作ることは人を強くすると同時に脆くもする』
『自分にとって大切な存在を失ったとき、残された一方は気丈にも今までと変わらず戦地に立つことが、果たしてできるのか?』

 塵も積もれば山となる、とはよく言ったもので、他にも大小様々な問題が二人の前にはあった。
 だが、それでも二人は望んだ。親しい周囲の苦言にも耳を貸さず、自分たちは大丈夫だから、と。
 今になって思えば、その自信は一体どこから湧いていたのだろうと呆れてしまう。
 けれど現実、別れた二人は平然としているのだから、あの言葉は真実だったと言える。
 死別したわけではないから少し事情が違うが、恋人ではなくなったのだから、同じことだ。
 別れたからと言って食欲がなくなるわけでもなく、仲間たちから掛けられた声を無視したくなるほど消沈してもいない。
 ラビの抱く疑問は、当然といえば当然、自然といえば自然な反応なんだろう。

「なぁ、アレン。 冗談だろ」

 元々色恋沙汰に頓着のないあちらはともかく、お前にとってあいつの存在はその程度だったのかと責めているような言葉の響きに、アレンは理不尽な罪悪感を覚えた。

「言っておきますけど、僕はふられたんですからね」

 言っておく必要がどこにあったんだろう、と思うには、もう遅い。
 突き付けられた理不尽さを呑み込めないくらいには、まだ自分の中で消化しきれていない想いが残っていることを、アレンはこの瞬間に自覚した。
 そしてラビも、おそらく気付いただろう。

「ふーん……じゃあ、今フリー?」

 慰めなんて少しも期待していなかったが、この質問は想定していなかった。
 意味深に口端を吊り上げるラビを一瞥し、生憎ですけど、と断る。

「相手が欲しいなら、向こうを誘って下さい。 僕は無理です」
「は? ……なに、アレンってばもう次の相手がいるさ?」
「馬鹿なこと言ってないで、鍛錬でもしたらどうですか」

 煮え切らない顔で冷てーの、と文句を言うラビを置いて、アレンは席を立った。










 頬を撫でる風は冷たく、降り注ぐ陽射しは暖かい。
 無神経な同僚よりよほど優しい世界の上を歩きながら、アレンはある場所へ向かっていた。
 『始まったことを終わらせるためには、始まりに戻るのが一番手っ取り早い方法だ』と言った先人の言葉を参考に、始まりの場所へと。
 そこは教団からそう遠くなく、特に秘密の場所というわけでもない。ラビやリナリーとも何度も来たことのある、ただの花畑だった。
 任務続きだったので久しぶりに足を運んだその場所は、小さな花を咲かせた草が風に揺れていた。

「-----、」

 不意に目の奥が熱くなって、アレンは俯いた。
 空には雲ひとつないのに、乾いた地に数滴の雨が降る。雫はほとんど同じ場所に落ちて、土の色を変えた。

「----- モヤシ?」
「っ、」

 背後から掛けられた声に、びくんっと身体が竦む。
 君も終わらせにきたんですか、という言葉は、咽喉で痞えている嗚咽が邪魔をした。それとも、彼の中ではすでに終わったことかも知れないという思いが、両足を支えている自尊心を守りたかったのか。

「……泣くくらいなら、こんなところに来るな」
「ッ、そんなことっ……君には、関係ないでしょう」

 無性に腹立たしくなって、頬を伝う涙をそのままに、アレンは昨日まで恋人だった男を振り返り睨みつけた。
 感情の起伏を感じさせない表情は、けれど無表情には見えなかった。瞳の奥は、昨日まで自分を見詰めていたものと少しも変わらない。
 ふったくせに。
 理由もろくに教えてくれないまま、ただ別れたいと切り出したのは君のくせに。
 そんな、まだ可能性があるような優しい目で見ないで欲しい。
 二度と与えられない想いと引き換えに渡された彼の決意を、本当は苦しいくらい知っていたから。

「何も言わねェんだな」

 言えるものなら、昨日のうちに言っていた。
 どうして、と詰って。別れたくなんてないと駄々を捏ねて困らせた。

「何か、言って欲しいんですか」

 引き止めて欲しい?
 縋り付いて欲しい?
 そんなことは、ひとつも望んでいないくせに。

「いや」

 案の定、返って来た返事は否定だった。

「殴られるくらいは想定してたんだけどな」

 隣に立った男から目線を逸らし、震える拳を強く握り締める。身体の奥で疼く痛みを少しでも中和しようと爪が食い込むほど握った掌に、ふっと温もりが触れた。
 驚いて顔を上げると、遠くを見たまま、彼はぽつりと呟いた。

「好きだ」

 始まりの地で、終わらせるために、始まりの言葉を。
 プライドも何もかも崩されて、アレンは片手を繋がれたまま、崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。
 分かっていた。
 ぜんぶ分かっていた。
 まだ愛されていることも、彼の心が自分に向いていることも。きっとこの先もずっと、この人は自分のことだけを想っていてくれるだろうと。
 だけど、その確信を武器に問い詰めるには、別れを告げた瞳が、見たことがないくらいに傷ついていたから。

「知って、る」
「あぁ、だろうな」

 みっともなく嗚咽をこぼして泣くアレンの手を離さず、神田は淡々と言った。
 アレンはラビの言葉を思い出して心の中で否定した。
 次の相手なんて、見つかるはずがない。こんなに愛している人には、もうきっと出会えない。

「神田」

 苦しいよ。
 言葉にならない悲鳴が全身を駆け抜けて、指先から相手に伝わる。ひと際強く握り締められた指先が痛い。その痛みは、彼の心が感じている痛みのような気がした。


「僕は、君を想い続ける」

 絞り出すような決意の言葉を聞いて、

「君が、僕を想い続けてくれる限り」

 神田は、掴んでいた手を離した。

「じゃあ、死ぬまで -----」

 絞り出すように紡がれた言葉の意味を噛み締めて、

「……死んでも、お前は俺を想ってろ」

 アレンは、小さく頷いた。


 たとえ、二度と触れ合うことはなくても、互いの温もりを忘れることは生涯ない。
 たとえ、たった一言の想いすら口にできなくても、互いの心を疑うことはない。
 たとえ、どちらかが命を失くしても、その代わりを誰かに求めることはない。
 たとえ、
 たとえ、

 たとえ。





§





 涙は枯れる。
 哀しみは永遠じゃない。
 必要だと言われれば、今すぐにだって戦地に立つ。

 そして、ぼくらは戦い続ける。

 掲げた決意を盾に、渡された決意を、剣へと変えて。






残された花びらの数を数えながら、神田は痛みを堪えるように目を伏せた。
カツン、と自室の前で止まった足音に続き、コン、とノックの音が響く。
「神田、話ってなんですか?」
扉の向こうにある笑顔が壊れる数分後の未来を思い、血を吐くような決意が揺らぐ。
だが、装置の中に落ちた花びらが、揺らぐ思いをもう一度強固なものへと変えた。
(お前が俺を想う限り、俺はお前を想う)


|Date : 2008.12.25|





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