意図俥




 視界に飛び込んできた世界の印象は、静謐だった。
 ひび割れた大きな窓ガラスの前。月明かりを背に立つその男の姿は、どこかこの世のものとは思えなくて、アレンは手にしていた資料をバサバサと床へ落としてしまった。
 物音がして初めてアレンの存在に気付いたかのように焦点を合わせた瞳に、温度は無い。
 ノックをしても返事が返ってこなかったから勝手に入った、という理由が、はたしてこの男に通じるだろうか?

「っ、すみません……」

 慌てて資料を拾い集めたアレンは恐る恐る顔を上げ、けれど黒曜石の瞳は苛立ちを垣間見せることもなく、ただこちらを見詰めていた。

「何の用だ」

 窓に背を預け、感情の起伏を窺わせない声が問う。
 面倒臭そうな、気だるそうな、普段とは違う覇気のないそれ。
 いつもとは何かが違う様子に、アレンは本能的に畏怖を感じた。

「任務の資料です。コムイさんから預かってきました」

 不自然にならない程度の笑顔を浮かべ、極力相手に視線を合わせる事無く資料を差し出す。
 古代ギリシャ神話の中に、見た者を石に変える力を持つ女神がいた。今の神田は、アレンにとってまさに神話の女神そのものだった。

 ----- 目を合わせれば、きっと逃げられない。

 誰のことも見ていないくせに、視線だけで他人を捕らえる人。誰のことも特別にはしないくせに、いつの間にか誰からも特別に想われるような人。
 団員の中にも神田を慕っている人間が少なくないことは、大分ここの暮らしに慣れてきたアレンにも分かっていた。その想いに、『性別』という一般的な境界が無いらしいことも。

「……ここに、置いておきますよ?」

 資料を取りに来ない神田に痺れを切らし、アレンはベッドに資料を置いた。
 用事が済んだなら、もうここに居る理由は無い。
 一刻も早く、不自然さを悟られず、扉の外に。
 捕まる前に。
 あの瞳に、捕らわれる前に。

「ッ、」

 不意に、腕を引かれた。
 誰? と問わなくても、この場には二人しかない。
 捕食者と、そして獲物の二人だけ。

「何怯えてんだ、モヤシ」

 意図を持って耳元に吹き込まれた声に、ひくりと咽喉が震えた。
 睨め上げることに失敗した銀灰が揺れ、噛み締めた唇が戦慄く。

「君こそ、なんのつもりですか? 呪われますよ?」

 初めて出会ったときに負わされた古傷を持ち出して茶化すように言うと、神田は口の端だけを緩く吊り上げた。

「呪ってみろよ」

 吐息が唇に触れたと思った瞬間、柔らかなものが重なる感触を覚えた。
 それが神田の唇だとか、自分が今受けている行為はキスなのだとか、そんな冷静な判断力が一瞬にして奪われる。
 唇を割って侵入してきた生温かい舌が、アレンの領域を侵して隠れている快感を巧みに引き出していく。
 ぴちゃ……と響く水音に羞恥を覚えて顔を背けようとすると、手首を掴んでいない方の手に顎を捕らえられ、より深く口付けられた。

「っ、ん」

 鼻にかかった甘い息。それが自分のものなのだと気付いて情けなくなると同時に、快感に支配されかけていた思考がクリアになった。
 不思議と嫌悪感はないし、キスが嫌というわけでもない。
 道徳的に考えるとおかしな気持ちにもなったが、3年間も不道徳の塊と一緒に生活していたアレンには些細なことだった。
 単なる気紛れなら、そのうち飽きてくれるだろう。
 そんな希望を持ってしばらくキスに応えていたが、冷たい指先がシャツの裾から侵入してきては、さすがに流されるわけにはいかなくなった。

「ッ……何、する気、ですか?」
「分からないほどガキでも無いだろ」
「そうすることの意味が分かりません」

 キスを中断したことが気に入らなかったのか、不満を露にした柳眉が顰められる。
 まるで責められているような錯覚に、アレンはキッと神田を睨み付けた。

「僕は君のこと、嫌いじゃありませんよ。 だけど僕を嫌ってる人と、こんなことしたくないです」
「やけに大人しいと思ったら、お前俺のこと嫌ってたんじゃねェのか」
「は? だから、嫌っているのはそっちでしょう? ……いい加減に放して下さい。 まだキスするんですか?」
「キス以上のことをする」
「ッ、人の話聞いてないでしょう!? 僕は僕のことを嫌いな人となんて -----ッ」


「好きなら、良いって?」


 ふわり。
 浮いた身体が、数秒後にはベッドの上に横たえられていた。

「……冗談、ですよね?」

 冗談を言うような男ではないと知っていても、訊かずにはいられない。
 訊かずにいられないのは、納得できないからだ。
 出会いは最悪で、『嫌いなタイプ』とも言われた。
 あのとき確かに、この男はそう言ったのだから。

「じゃあお前は?」

 答えを貰えぬまま訊き返され、小さく息を呑む。

「お前、『嫌いじゃない』奴からは大人しくキスされて、相手が自分に好意を持ってたらヤんのか?」
「なっ、そんなことあるわけないでしょう!? それに、さっきは君が急にッ」
「振り解ける程度でしか掴んでねぇ」
「----- っ」

 それは真実だった。
 やんわりと捕まれていた手首に痛みはなかったし、振り払おうと思えば、逃げようと思えばいつでも可能だった。
 けれどできなかったのは、そうしなかったのは、アレンが「そうしたくなかった」からだ。

「逃げようと思えば、今でも逃げられるだろ」

 言いながら髪を梳く指が酷く優しくて、錯覚しそうになる。
 「好きだ」と言われたわけでもないのに、言葉以外のもので、教えられているような気分になって。

「君は、僕のこと……」
「好きかって?」
「……」

 好きだ、と言われれば、神田の言うとおりに、このまま流されるんだろうか。
 自分でも自分が分からなくなって、抵抗する力も起こらない。
 冷たい指に頬を撫でられて、投げ出したい意識が静かな部屋に繋ぎ止められる。
 ふっくらとした下唇を指先がなぞって、その後を濡れた舌が通った。

「答えが聞きたかったら付き合えよ」

 その言葉を合図にしたのか、月明かりを遠ざけた雲が合図をしたのか。
 遠慮をなくした神田は、けれど配慮だけは決して疎かにすることなく、この夜アレンの身体を支配した。





§





 知らない快楽を教え込まれて意識を飛ばした身体は、同じ分だけの痛みを伴って目覚めた。
 最中は恥ずかしいくらい丁寧に扱われた行為だったとしても、後からじわじわと広がってくるものには抵抗する術がない。
 同意していたわけではないにしろ、はっきり断り切れなかった手前で痛みの原因である相手を罵ることもできず、アレンは背を丸めてじっと堪えていた。


 一糸纏わぬまま身を守るように丸くなったアレンに、神田は自身が脱ぎ捨てたシャツを掛けてやった。
 それは気遣いからではなく、微かに震えている細い肩が、あまりに儚く見えたせいだ。

 ふわり、と何かに包まれて、震えがぴたりと止まった。
 驚いて視線だけを向けると、そこには痛い思いなどひとつもしていないくせに、なぜか痛みに堪えるような表情をした神田が居た。
 さっきまでの激情をどこへ隠したのか、自分を見つめる視線はひどく頼りない。


 不意に視線が絡んだと思うと、顔色の良くないアレンはなぜか困ったように微笑んだ。
 まるで小さな子供でも見るようなその瞳に怪訝に眉を寄せると、「起こして下さい」と片腕を伸ばされた。

 抱き起こされた身体は壁に寄り掛からされることはなく、素肌を晒したままの胸の中に落ちた。
 意外な表情や意外な行動はこの部屋に入ったときから始まっていたのに、この時間はまるで種類の違う意外さに驚かされてばかりだ。
 ずり落ち掛けたシャツもきちんと肩に乗せられ、そのまま指先は乱れた髪を撫でた。


 腕の中に大人しく収まった身体に、無意識に安堵の息を吐く。
 半ば強引に痛みを与えた自分を恨めしく思うだろうと思っていたのに、組み敷いている間に乱れた髪を梳いてやると、アレンは嬉しそうに目を細めた。

「これが答えですか?」


 その言葉を合図にしたように、覆い隠されていた月が室内を微かに照らした。
 言葉に目を丸くした神田は、けれど誤魔化す素振りを見せることはなく。


「好きに受け取れ」






ねぇ、スキって言って下さいよ。
寝言は寝て言え。

|Date : 2008.12.25





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