DREAM LAND
パタリ、本の閉じる音がするとアレンは少しだけ頬を膨らませ、もう少しだけ聞かせてとせがむ。
そんな息子を見て、父は柔らかく微笑んだ。
「さぁ、今日のお話はここまでだ。おやすみ、アレン」
「おやすみなさい、マナ」
額に親愛のキスをされ、出て行く父は部屋の灯りを淡いものへと変える。
パタン、本を閉じるよりも少しだけ重い音が静寂に包まれた子供部屋に響き、アレンはシーツを手繰り寄せた。
シーツの中から手を伸ばしガサガサとサイドテーブルに置いていた本を手に取る。
「ピーターパン」
永遠の少年。
永遠に子供の心を持った少年の物語。
アレンは何度も何度も、眠る前にはこの本を読んでもらっていた。
夢の中で自分が本の主人公、ピーターパンになって、妖精のティンカーベルの代わりに家で飼っている小鳥のティムキャンピーと雲の上を自由に飛び回る。
インディアンに出会い、森の小屋で仲間たちと騒ぎ、人魚と話をして。
夢の中の時間はアレンにとってとても幸せで、楽しい冒険のひと時だった。
あぁ、でも……1つだけ、『ピーターパン』は物語の中で経験していない事がある。
「フック船長の船には……まだ行ったことが無い」
海を支配する悪い海賊の頭、ジェームズ・フック。
物語の中ではピーターパンは彼と激しい戦いを繰り返し、最後には勝利して海の平和を勝ち取るのだが……。
夢の中のアレンは妖精や他の生き物と遊んでばかりで、『戦った』ことは一度も無い。
現実でも、アレンは平和主義者だったから。
「でも……」
本当は逃げているだけなのかも知れない。
そう思う自分がいることに気付いたのは、いつだっただろう。
今日こそは。
アレンはキュッと唇を噛み、瞳を閉じる。
今日の夢こそはフック船長に戦いを挑み、海の平和を勝ち取ろう!
そう心に決めたアレンはネバーランドに旅立つ前に、頭の中に様々な武器を思い描いた。
部屋の隅にいたティムキャンピーを手招きし、枕元を叩いてここにおいでと呼ぶ。
「ピーターパンとティンクはいつだって一緒なんだよ……」
いざ、楽しい冒険の夢へ。
§
夜の海は暗いけれど、フック船長の船はいつでも煌々と灯りが点いていた。
島からも停泊している船は見えていたが、アレンは今まで一度も船に近付いたことが無い。
丸く切り取られた船窓から中を覗き込み、お目当ての相手を探す。
杯を酌み交わす水夫は皆デッキにいた。だが『残酷なフック船長』はいなかったように見えた。
「どこにいるんだろう……」
少し狭かったが、開いていた船窓から中へと滑り込む。
殺風景な部屋には必要最低限の物しかなく、けれど一人の水夫に与えられるには広すぎるキャビンにアレンは首を傾げる。
インテリアも何一つ無く、机の上にあるランプの火だけが空間を淡い橙で揺らしていた。
「ティムキャンピー」
開いていた窓から黄色の羽根を持つ友人が飛び込み、アレンの肩にとまる。
「フック船長はね、ピーターパンと戦って右腕を失って、でもその代わりに付け替え可能な機械の腕を装着するんだ。その中でも有名なのが鍵爪の『フック』なんだって。あ、でも名前とは関係無いみたいだよ?ジェームズ・フックっていうのは……」
ギシリ、廊下へ続く扉の外で音がし、アレンは咄嗟にクローゼットの中へ隠れる。
動き回ろうとするティムキャンピーを必死で押さえ込み、アレンはバクバクと鳴る煩い心臓すら止まってくれと願った。
扉の開く音に、背筋に冷たいものが這う。
「あんな馬鹿騒ぎに付き合いきれるか!!」
「ユウほど自分勝手な船長っていねーだろうなァ……」
「煩せぇ!!」
(ユウ……? 船長が『ユウ』って……あれ? フック船長じゃないの? それに……随分若い)
アレンはクローゼットの隙間から出来る限り部屋を見渡し、声の主を探す。
名前が違うだけで船長に変わりが無ければ、彼の右腕はピーターパンによって失われ、今は鍵爪のフックの筈だ。
「もう寝る。出て行け」
「ヒッデーの。夜明けには起こすからなー」
「わかったからアイツらを少し黙らせろ」
不意に、『ユウ』という名の船長がベッドに腰を下ろし、クローゼットに視線を向けた。
そのあまりの“黒さ”に、アレンの心臓はドクリと跳ねる。
橙の灯を吸い込むほどの黒曜石の瞳が自分を捕らえている。その少年が残酷な海賊であるというのに、何故か心地よかった。
白に近いプラチナの髪を持つアレンにとって、この“黒”は羨望にも似た思いを抱かせる。
どこまでも黒く、美しい漆黒。
「ユウ?」
「何でも無ぇよ、早く行け」
ハイハイ、と呆れた声の少年が部屋を出て行き、足音が遠ざかる。
途端、『ユウ』という名の船長はベッドから勢いよく立ち上がり、クローゼットへと迷わず歩み寄った。
(ちょ、や、まっ、来る!来るよティム!!)
クローゼットの扉を1枚隔てたすぐそこに、美しく残酷な海賊がいる。
もしかしたら、この少年は自分を殺すかもしれない。そんな状況で、アレンの顔は青褪めるどころか赤く染まっていった。
ゆっくりと、暗闇に包まれていたクローゼットの中にランプの灯りが差し込む。
それと同時、アレンの視界は一人の少年に釘付けになった。
「で、誰だよ。お前は」
声変わりを終えたばかりのようなテノールは海賊に相応しく、アレンを見下ろす双眸は背筋が凍るほどに冷たい。
今にもその深い闇に吸い込まれてしまいそうで、アレンは開いた口が塞がらないまま立ち尽くした。
「……おい」
「あ、ごめんなさいっ!! 僕怪しい者じゃなくてッ……!!」
「人の部屋のクローゼットに入ってるガキのどこが怪しくねぇんだよ」
端から見るとクローゼットに語りかけているように見える少年は慌てふためくアレンを無視して狭い空間から引きずり出し、男の子にしては軽く華奢な身体をベッドに放り投げた。
突然の衝撃に目が回ったアレンを一瞥し、少年は大きく溜息を吐きながらベッドに腰かける。
アレンの目を一目で奪った黒髪は男性にしては少し長目で、けれどよく似合っていた。
「で、お前の名前は?」
「あ、アレン・ウォーカー……」
「誰が本名を口にしろって言ったんだよ。この世界での名前だ」
「この……世界?」
きょとんと目を丸くしたアレンを訝しげに見つめ、少年は「何も知らねぇのかよ」と前髪を掻きあげた。
「ここはネバーランド……子供が夢を見る場所だ。この世界ではなりたいモノになれる。人魚になる奴もいれば、インディアンになる奴も……海賊になる奴もな」
「あなたは海賊になりたかったんですか?」
「俺は借り出されたんだよ!! 明日は高校の入学式だって言ってんのに!! あのクソコムイ……戻ったら覚えてろよ」
「よ、よく解らないけど、夢の中って大変なんですね……」
夢の中にいても現実を見なければならないのは、何だか可哀相だと思うけれど。
彼の話では、夢を見る子供はネバーランドに行く事が出来る。
そこではまるで演劇の舞台のように配役が決まっていて、この少年は今日、『フック船長』役の人がいないから、この『ネバーランド』を管理する人に無理やり借り出されたそうなのだ。
先程ここにいたもう一人の少年も、同じような理由でネバーランドにいるらしい。
12歳のアレンにはなかなか理解し難い話だったが、少しの時間をかけて受け入れる事が出来た。
子供の頭は単純明快、要は楽しければ良いのだ。
「僕はこの世界ではピーターパンなんです。こっちが妖精のティンカーベル」
「ピーターパン……?」
ニコニコと嬉しそうに言う子供と、その肩にとまっている黄色の小鳥。
「……それで? お前はここに何をしに来たんだ?」
「えーっと、一応フック船長と戦おうと思ったんですけど……いないなら仕方無いです。また今度……」
「待て」
少年はフワリと宙に浮いたアレンの手を取り、引き寄せる。
不安定な体勢で抱き締められるような形をとられ、アレンの心臓は早鐘を打った。
首筋に熱い吐息を感じてギュッと目を瞑ると、温かく柔らかな感触が首の一部に触れ、吸い上げられた。
「ひゃっ」
「……会いに行く」
「え?」
抱き締められていた腕が解かれ、アレンは宙にふわふわと浮いた。
紅潮した頬を撫でられ、くすぐったさと未知の快感に美しい銀灰の瞳が揺れる。
「でも、だって、あなた東洋の人でしょう? 僕がいるのはイ……」
ふわり、唇が塞がれる。
首筋に触れた熱と同じ温もりが、アレンの唇を包んだ。
ゆっくりと放されるそれは惜しく、アレンは自分から抱き付いてしまいそうになるのを必死で堪えた。
「夢の中で自分の事を明かす事は禁じられている。でもさっきお前名乗ってたな。……あぁ、俺も何か言ったな」
「な、名乗ってしまったから……決まりを破ってしまったから、もう会えませんか? 僕はネバーランドにも来られない?」
「……さぁな」
『……レン、……なさい』
アレンはハッと頭上を見上げ、次いで哀しそうに漆黒の少年を見下ろした。
「父さんが呼んでる……起きなくちゃ……」
「言っただろ? 会いに行く。時間はかかるだろうが、必ずだ。出来るだけ同じ場所に居ろよ」
初めて会ったこの少し年上の少年を、アレンは自分の中にまだ生まれていない感情で恋しいと思った。
離れたくない……でも彼はきっと自分を見つけてくれる。
何故か、信じる事が出来た。
「待ってる……もうここへ、ネバーランドへ来られなくなっても、ずっと……」
「あぁ……またな、『ピーターパン』」
「きっと、来てね……」
口の端を緩く上げて笑った彼の唇に触れるだけのキスをして、アレンの姿は霧散した。
「必ず……会いに行ってやるよ」
----- 3years ago.
あの日から、僕は夢を見なくなった。
とてもとても哀しいことに、あの日からネバーランドにすら行けなくなってしまった。
どれだけティムと一緒に眠っても、もう空を飛ぶ事は叶わない。
彼とも……会っていない。
名前くらい訊いておけば……。
そこまで書いて、アレンは苦笑交じりにペンを放り投げた。
日記を閉じて首を回し、『夢の中で自分の事は話しちゃいけないんだった』と独り言を洩らす。
椅子から立ち上がって窓辺に寄り、夜の空気に包まれた英国を見渡した。
夜、アレンはいつも窓の鍵を開けて眠っていた。
彼は『フック船長』だったけれど、もしかしたら、この窓を叩いてくれるかも知れないと思って。
「会いたい……」
3年間、片時も忘れる事無く彼だけを想い続けた。
ほんの一瞬でも忘れてしまったら、あの出来事は本当に夢の中だけの物語になってしまうから。
「会いたい……あなたに」
夢にしないで。
夢で終わってしまわないで……待っているから、ずっと待っているから。
----- コツン
コツン、……コツン
「なに……?」
窓を叩く音に地上を見下ろし、アレンは等間隔に並んだ1つの街灯の下にある人影に気付いた。
黒のロングコートを着込み、アレンの部屋の窓を見上げている人物。
「あ……」
名を呼ぼうとして、呼べる名が無い事に唇を噛む。
アレンは感情が高ぶったまま窓を開け放って足を掛け、タンッと枠を蹴った。
彼ならば、あの温かく力強い腕ならば、きっと受け止めてくれる。
どさり、ピーターパンは海賊の腕の中に落ちた。
「現実の世界でも飛べるわけじゃねぇだろ。無茶してんな」
「名前……あなたが名前教えてくれなかったからッ、呼びたくても呼べなくて、それで……」
「神田、だ」
「やっぱり……フック船長では無いんですね」
フフと笑うアレンの頬を撫で、神田は深く長い溜息を1つ吐いた。
アレンが神田の首を両腕できつく抱いているのと同じくらいの力で、細い身体を抱き締める。
そこには、互いの3年間の想いが溢れていた。
「今年の春からこっちの大学に通うことになった。しばらくは一緒だ」
「家は……住むところは?」
「大学の近くに借りる。ここからそう遠くないから問題無ぇよ」
「……父さんが、3年前に事故で他界したんです。だから、もし良かったら一緒に住めませんか? 家賃も要りませんから……」
神田は泣きそうに曇った瞳を覗き込み、目尻に口付ける。
あの時、アレンを起こすために呼んでいた声の主は、もうこの世界にいない。
実感は湧かなかったが、首に回された腕の強さで、アレンがどれだけ寂しい思いをして3年間を過ごしてきたのかが知れた。
大学の近くに借りる予定だったアパートメントからは、ここまで歩いて数十分程度。一緒に住む事を現家主であるアレンが望んでくれるというのなら、神田が断る筈も無い。
「けど、父親との思い出がある場所に、俺が住んで良いのか?」
「神田さんに会いたくて僕が夜中に家を出る方が、父さんは心配すると思います」
「それは俺が心配するからやめろ……。……、おい、お前玄関の鍵開けてんだろうな?」
「どうしてですか?」
ことりと首を傾げるアレンを見遣り、神田は脱力した。
「どうやって家に入る気だ、『ピーターパン』……落ちることは出来ても飛ぶことは出来ないだろうが!!」
「登りましょうよ!! 僕、木登りは得意なんです!!」
「裸足で登らせられるか!! 落ちないようにしがみついてろ」
「平気なのに……」
神田はアレンの部屋のすぐ傍にあった樹に足をかけて器用に登り、開いた窓から背に乗せていたアレンを先に下ろす。
自分も靴を脱いで部屋に入ろうとしたところで、不意にまとわりつく視線を感じた。
「何だ?」
視線の原因であるアレンを振り返れば、どこか嬉しそうな表情。
一人だった家に人が増えた事が嬉しいのかと思ったが、違ったらしい。
「フック船長じゃなくて、ピーターパンみたいですね」
窓枠に足を掛けたその姿に、アレンは楽しそうに笑う。
今日の二人は、間違いなく夢の中のネバーランドへと旅立つだろう。
窓を叩くよ。
鍵は開けておいて?
はっ、恥ずかしい(涙)
文章力も構成力も今より更に乏しい時代が懐かしいけど恥ずかしい。
改訂しようか悩んだんですが、これも思い出か……と9割がたそのままにしています。
因みに私も気になったので、書き手なりに考えてみました。
Q.神田さんはどうしてアレン君を見付けられたの?
A.愛の力です。(脱兎)
08.03.15 canon