記憶の中の傷痕 03
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シャワーを浴びた神田はスラックス1枚の姿で寝室へと戻り、寝乱れたシーツをアレンの肩を覆うまで引き上げた。
安らかに眠る幼い寝顔は確かに『神の愛娘』と呼ばれるに相応しいほど穏やかで、数時間前の哀しい涙や快楽に
零れた涙を少しも思い出させはしない。
女には多様な表情があると言うけれど、それはアレンには該当しないだろうと小さく笑った。アレンはいくつも表情を
使い分けているのではなく、一瞬の感情の変化が表情に押し出されるのだ。
頬に張り付いた銀糸を横へと梳いて撫でつけ、隠れていた左目の下にある傷に指を滑らせる。
左腕と同様に、この傷も疼いたのだろうかと思うと神田はやるせない気に苛まれた。
サラシを巻かずに黒のシャツを羽織ると、ソファに放って置いた団服を身に纏う。
心も身体も疲れているアレンは数時間は起きそうに無くて、神田は眠り姫の唇に触れるだけのキスをして部屋を出
て行く。
お伽噺の眠り姫は運命の相手のキスで目覚めたが、神田の雪のように白い姫は、深い眠りから意識を覚ます事は
無かった。
粉雪程度だった筈の外は、今では吹雪と思えるほど神田の視界を白一色で覆っていた。
耳元を生き物の悲鳴のような風音が通り過ぎ、アレンならば「AKUMAの叫びのようだ」とでも形容するだろうかと
ぼんやり思い耽る。
誰よりも優しく、誰よりも傷付きやすく、誰よりも意地を張ってしまい、自分を棄てる事を厭わない。
彼女の育ってきた環境がそうさせたのか、もしくは彼女自身が築き上げてきたものが『アレン・ウォーカー』なのか、
神田は正直、悩む事が多くあった。
会話の中でふとした瞬間に見せる表情は易い言葉で言えるような表情では無く、どうしたのかと訊こうにも喉は音を
発せず。そうしている内にアレンが別の話を始めてしまえば、神田には為す術が無かった。
左腕が痛むと言って泣いたアレン・・・あれは本当に左腕そのものが痛んだのだろうか。
本当はもっと別の理由が、アレンの記憶にも神田の情報にも無い何かがあるのではないかと、神田はきつく眉根を
寄せる。
全ては憶測でしかないが、捨てられる以前の記憶を持たないアレンに確認する事は出来ない。
ならば、と。
神田はチカチカと電球の交換を訴える外灯の下を歩きながら、ロンドン郊外にある一件の店を目指す。
アレンの捨てられる以前の情報を持つ唯一の人間が居る場所、アレンを生後間もなくこんな寒空の下に捨てた張本
人の務める酒場へと。
深夜に近い時間帯だが、酒場という場所は夜が更ければ更ける程騒がしく、活気の溢れる場所だ。
仕事を終えた男達が集っては談笑し、ある一部は賭け事に興じ、負けた者の嘆きや豪快な笑い声がそこら中に散乱
していた。そんな中で明らかにこの場に不似合いな婦人が一番端の席で落ち着いているのを見付け、神田は痛みを
感じる頭を軽く振る。
窓の外の吹雪をジッと見つめている婦人は頬杖を付き、時折溜息を吐く様は・・・皮肉にも教団でアレンが見せる顔に
似ていて。
この姿を見れば、ラビやリナリー・・・コムイや他の団員までもがアレンの母だと即座に認めるだろう。
『呪われ忌むべき子供』が今では『神の愛娘』と囁かれている事・・・それを知ったらこの女はどんな顔をするだろうか。
神田は団服に付いていた雪を払い、呼吸を1つおいて婦人の座る席へと近付く。
ギシリと軋む床音に気付き、吹雪を見つめていた蒼の瞳はすぐ傍に立っていた漆黒の青年を見上げ、苦笑混じりに笑
った。
「さっきは、悪かったわね」
ポツリ、と耳に馴染むアルトが零れ落ちる。
先ほどアレンを罵った声音とは似ても似つかないアルト、それはやはり・・・アレンと似ていた。
いや、アレンがこの女に・・・似ているのだ。
当然と言えば当然の事・・・神田の目の前にいるのは、アレンを産んだ女なのだから。
「アイツはアンタが捨てた時と瞳の色も髪の色も違う筈だ。何故気づいた?」
「さぁ・・・何故かしら。本能かもね」
母親特有の。
そう呟いて、湯気の立つコーヒーを口に運び、また視線を窓の外へと移す。
互いに何を口にすれば良いのか分からない。
神田はアレンが倒れたあと、蹲る母親に勤め先を訊き、数時間後に待ち合わせてこの酒場を訪れた。
あの時はただアレンの身を案じて婦人を後回しにしたのだが、今になれば会って何を話そうというのか・・・神田は内心
小さく舌打ちを打った。
「死んだと思ってたんだな?」
「雪の降る寒い夜に捨てたんだもの・・・死んだと思って当然でしょう?」
詰めていた息を吐き出すように言われ、神田は一瞬声を上げそうになった。
自分の愛する女を侮辱されたようで、心穏やかではいられない。けれど、神田は拳を強く握り締める事で堪えた。
『黒の教団』は広い範囲で知られているが、その任務や目的などについて知る一般人は多くない。
愛する者との間の子供は、未だかつて見たことの無いほど気味の悪い左腕をもって産まれた。
その左腕は寄生型のイノセンスだったけれど、一般の人間がそんな事を知る筈も無く・・・婦人とその夫にとって、産ま
れてきたアレンは確かに忌むべき者に見えたのかも知れない。
・・・だからこそ捨てたのだろう。
それが自分のお腹を痛めて産んだ子だとしても。
装備型も寄生型も、エクソシスト本人たちの意思でどうにか出来るものではない。
適合者である事が分かれば即刻教団から使者が訪れ、どんなに拒否しようとも最終的には『黒の教団』へ連れて行か
れる。
そして教団が保有しているイノセンスと一番シンクロ率の合う物を選び出され、訓練を受け、いつの間にか戦場へ立つ。
初めは誰も、望んでなどいなかった。
世界の為、それが自分や愛する者の為になると言われて戦うのだ。
「アンタは・・・」
「ティシア」
「あ?」
「『アンタ』、じゃないわ。ティシアよ」
それが自分の名である・・・そう不満げに主張されて、神田は酷くなる一方の頭痛に項垂れる。
どうして、こんなにも似ているのか。
そして自分も、結局その名を容易く口には出来ない。
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ま、いいわ。・・・ねぇ、あの子はどうして生き延びたの?」
まるで御伽噺の続きを気にする子供のような視線は吐き出したくなるほど無垢で、故に悲しみだけが膨らんでいく。
可哀相だ。これでは、あの真っ白な少女が。
「旅人に拾われたらしい。アイツは・・・アレンはソイツの名を取ってアレン・ウォーカーと名乗っている」
「アレン・・・ウォーカー、ね・・・・・・」
「どうせ名前も決めずに捨てたんだろ?」
咎める様な声音を隠さず吐き捨て、特に何の感情も浮かべていなかった顔を見遣る。
だが一瞬だけ・・・本当に瞬くだけの間、悲痛に歪められた表情を見た気がした。
光の加減か、ただの見間違いか。
「あの子は・・・アレンは今もその人と暮らしているの?」
「育て親であるマナ・ウォーカーはアイツが12歳の時に病に倒れて死んだ」
「病・・・?」
頬杖をついて神田を伺うように見つめ、ティシアはどこか嘲りを含んだ笑みを零す。
この時、神田は初めて「違うのだ」と感じる事が出来た。アレンには人を見て嘲笑するなど・・・絶対に出来ない。
ティシアとアレンは皮肉な程にその仕草や容姿がよく似ているが、心は完全に別の生き物だ。
「それ、本当に病だったの?」
「何だと・・・?」
苦い笑みを浮かべた口元と瞳、声音。
過去を思い出すようにティシアはゆっくりと瞼を閉じ、数拍置いて神田を射るような視線で見据えた。
そして、また思うのだ。
あぁ、この決意の表情は、とてもよく似ている・・・と。
「本当は、あの左腕で殺したんじゃないの?」
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シャランラ。