記憶の中の傷痕 01


しんしんと舞い散る白の花は美しく、けれど何故か怖いとも感じられるのは、予感があったからかも知れない。 泥濘の上や荒野のど真ん中というわけではなく、一歩踏み出す度にギュッと鳴る雪の路に、アレンは口許を綻ばせた。 時々立ち止まっては嬉しそうにクルリとその場で回ったりしている少女の姿を視界の端で捉えながら、白い世界でも呑み込ま れる事無く存在する漆黒の青年は白い息と共に溜息を吐いた。 ただでさえ足を取られるロンドンの街を歩いているというのに、このままアレンに付き合っているようではいつまで経っても教 団に帰り着けないような気がしてくる。 何とか話をして任意の連行か、有無を言わさず肩に担いで強制連行か・・・。 この厳しい寒さに加えて今回の任務は『ハズレ』であったために、神田は冷静かつ優しい思考を失い掛けていた。 「いい加減にしねぇと置いて帰るぞ」 「神田はそんな事しませんよ」 降り続くパウダースノウのようにフワリとした笑顔を向けられ、神田は前髪をクシャリと掻き乱す。 アレンは忠告など全く聞く耳を持たずクルクルと両手を広げて踊り、神田の心の平穏を脅かしている事には気付きもしない。 いつ転けるか分からない・・・、神田の意識はその一点だった。 教団にいち早く帰りたいのも結局はアレンに風邪をひかせたくないからであって、温かい料理が恋しいわけでも談話室の暖炉 にあたりたいわけでも無い。 「ほら」 差し伸べられた右手を見て、アレンはことりと首を傾げる。 雪の精のように舞っていた足を止めて自分の左手を見遣り、繋いで良いものなのかと要らぬ気を回す少女。 恋人という関係になって数ヶ月、未だに初めて出会った時の悪印象が改善されていないのか、神田は呆れたように肩を竦め た。悩むアレンの左手を取り、歩き出す。 その歩調はアレンの小さな歩幅に合わせられていて、そんな些細な優しさにアレンは神田の手を握っていた左手にキュッと 力を込めた。 身長差が大きいので見下ろされる形になり、訝しげな視線を落としてくる神田に笑顔を向ける。 切れ長の瞳に見下ろされれば大抵の小さな子供は泣いてしまうかも知れないけれど、アレンにとってこの黒曜石の双眸は誰 よりも優しい光を宿し、いつだって自分を見守ってくれる人の物。 愛さずにはいられない。 『神田ユウ』という人間を構成する全てを。 「おい・・・お前、何か拾って食ったんじゃないだろうな」 始終ニコニコとしているアレンを真剣な顔つきで覗き込んでくる神田が可笑しくて、アレンは声を上げて笑った。 「まさか!大体、この雪じゃ落ちていても気付きませんよ」 「気付いたら拾って食うのかよ・・・」 フザケ合って、他愛の無い会話で笑い合い、熱を分け合うように寄り添って歩く。 命を賭けて闘う日常を振り返ると、例え冷たい外気に晒されていようともこの時間は二人にとって幸福に満ちていた。 「あ・・・ぁ、あぁ・・・・・・」 不意に後方で聞こえた声に二人が同時に振り返れば、そこにはフードを被った30代半ばほどの婦人が両手で口許を覆って 佇んでいた。 挙動不審な婦人をAKUMAかと疑った神田は六幻を抜刀しようとしたが、それはAKUMAを認識出来る左目を持つアレンに よって制止された。 緩く首を振るアレンを確認し、神田は警戒を解かないままアレンの腰に手を添えて引き寄せる。 「何か用か?」 カタカタと小刻みに震える婦人を睨み付け、低めのテノールは静かに問う。 声を掛けられた事に驚いたのか、婦人は人形の糸が切れてしまったようにその場に崩れ落ち、アレンは咄嗟に駆け寄った。 「あのっ、大丈夫ですか?」 「どう・・・して・・・?」 悲痛な面持ちで今にも雪の上に倒れ込んでしまいそうな細い肩を支えながら、アレンは首を傾げた。 それは婦人の意味不明な言葉を不思議に思ったからでは無く、何故かこの人を知っている気がしたのだ。 一度顔見知りになれば余程の事が無い限り、アレンが人の顔を忘れる事は無い。 では、この婦人とは一体何処で会ったのだろうか。 「すみません・・・僕、あなたとお会いした事がありますか?」 躊躇いがちに訊くアレンを緩慢な動作で見上げた婦人のフードがパサリと外され、露わになった双眸からは涙が零れ落ちる。 後を追って来た神田は外灯の下で晒された婦人の素顔に、小さく息を吸い込んだ。 恋人に酷似した、その顔。 「どうして生きているの・・・捨てたのにっ、あの時確かに捨てたのに・・・!」 悲鳴のような、断末魔のような声に、アレンの思考は雪に覆われた真っ白な世界で真っ黒に塗り潰された。 忘れていた筈の記憶が甦る。 在る筈の無い記憶を、アレン自身の身体が呼び覚ます。 「忌まわしい・・・呪われた私の子供がぁッ・・・!」 ―――高くそびえ立つ時計台が、いくつかの鐘を鳴らした。
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